飛鳥旬のブログ

自分のアトピーは自分で治そう!

「べき論」は不毛

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十津川村のキャンプ場


久々に十津川を訪れた。

「コロナ騒動が落ち着くまで・・・」と自粛していたら、あっという間に一年が経過。

今回は妻と娘も行くと言うので、久々にキャンプ場で昼食を取ることにしたのだが、その様子は数十年前のスタイルから「良い意味」で大きく様変わりしていた。

まず客層。

家族連れは勿論、女性だけのグループや男性だけのグループ、若いカップルもいればそうでないカップルもいて、中にはバイクツーリング姿の渋~い中年男性等、人数や年齢も様々だった。

それに加えて、スタイルも様々。

我家のように「ちょっと森林浴でも・・」的な日帰りスタイルもあれば、「キャンプオタク」を連想させるガッツリ派もいた。また「もう何日連泊してるの?」と思われる定住派?や、一杯だけのコーヒーをじっくり楽しむスタイルの人もいた。

誰もが好きなスタイルで、自分に合った楽しみ方をしている。

「いいな・・・」

と、そう思った矢先、

お隣のテントから二人の男性(年齢不詳)の白熱した討論の様子が伝わってきた。

「なんだなんだ?」

嫌でも聞こえるその内容を推測するに、それはどうやらキャンプ場で飲むコーヒーカップの素材が「ステンレス製」か「チタン製」かの論争だったようだ。

お互い、そこには確固たるスタイルのあるのがよくわかる。

そしてお互いの主張はどちらも正論であり、どちらも非の打ち所がなかった。

「それにしても・・・」である。

そもそもキャンプ場でコーヒーを飲むだけの話なのだ。そこに「カップの素材は○○であるべき」などと言う、「べき論」は要るのか?

それより、

今、「この瞬間を楽しむ」方がいいじゃないか?
今、「このコーヒーの香りを楽しむ」方がいいじゃないか?

と、第三者的な目線で客観的な判断が下せる訳だが、じゃ、自分がアトピーの時はどうだったのか振り返ると甚だ疑問である。

「~するべき」
「~しなくては」

当時、頭の中は一種の強迫観念で一杯だった。

だが、

アトピーであれ、それ以外で生じる日常の厄介事であれ、

「~するべき」
「~しなくては」

と言った「べき論」はいつも危険だ。

なぜ「べき論」が危険かと言うと、それは私の経験ではまず柔軟かつダイナミックな思考が遠のき、問題の本質からどんどん離れてしまう危険性をはらんでいる。

ちなみに、今、ある物事に対して

「~すべき」
「~しなくては」

と真剣に考えてみよう。

どうだろう?

一瞬で、「少しだけ」肩に力が入らないだろうか?
そして、「少しだけ」身体全体に力みが生じないだろうか?

問題はこの「少しだけ」である。

結論から言ってしまえば、私はこの「少しだけ」の積み重ねが厄介だと思う。何故なら、いい意味でも悪い意味でも「少しだけ」の積み重ねが大きな結果となるからだ。

考えてみれば、

アトピーを含めた生活習慣病そのものが「少しだけ」の積み重なった結果なのだ。

と同時に、この

「~すべき」
「~しなくては」

は、私達を極端から極端へと、その振幅を増幅させる。

そして、何とかその(~すべき)目標を達成しようと必死になればなるほど、次第に周囲の状況が見えなくなるようになる。

「日本は資源の無い国である」
「よって、何らかの手段で資源を確保しなくてはならない」
「いや、確保すべきである」

「・・・・・」

「これしかない!」

なんて本気で信じたら、本当にそれしか方法は無くなってしまう。

が、真実はそうではない。

自分でアトピーを治す過程を通じて、自分で肩こりを治す過程を通じて、自分で腰痛を治す過程を通じて、私はそう思う。

やり方なんて、いくらでもあるのだ。

「これしかない!」

なんて思って信じ込んだら、あまりと言うか、全然ロクなことなんてない。出口の見えない袋小路に迷い込むだけだ。

ちなみに、今回我家が持参したコーヒーはコンビニで買ったUCC珈琲の紙コップタイプ。チタンでもステンレスでもないが、大自然の中では至福の一杯だった。