本当の幸福ってなんだ?
桜が咲いた!
久々の投稿である。
次女の大学入試、高校時代の同級生との再会、同級生(幼なじみ)に対する諸々のヘルプ、そして読者の方々へのアトピー指南と、相変わらず多忙な時を過ごしていた。
一方、身体の方はどうかと言えば、60歳を過ぎてからも体調は良い。
「快食」「快便」「快眠」。
自分に関する限り、アトピー全盛時の20代より今の方がはるかに元気である。
で、元気と言えば、つい先日、こんな出来事があった。
「お前、雰囲気変わったな~!」
そう言われたのは、高校時代の同級生との再会時。
35年ぶりの再会で「雰囲気変わったな~」もどうかと思うが、他の2名からもそう
言われると、「そうかもな」とも思う。
その理由は、やはりアトピー。
当時、私のアトピーは自分が想像していた以上に彼らに印象を残したようだ。
いや、厳密に言うと、彼らの印象に残っていたのは「アトピーの私」ではなく、「アトピーを気にしている私」「アトピーに悩み、苦んでいる私」らしい。
彼らによると、当時の私はいつも物思いに耽っていて、いつも「心、ここにあらず」の状態だったらしく、そう言われるといちいち思い当たるふしはある。
なんせ35年ぶりの再会である。
当然、「お前、雰囲気変わったな~!」も不思議ではない。
私はなかば、強制的にそう思うことにした。
ところが、
同じ同級生の次のコメントで、私を一機に上機嫌になった。
「お前、雰囲気は変わったけど、体形は全然変わってないなー」
「そうそう。そこをもっと観ろ!」
思わず、私は心の中でそう叫んでいた。事実、私の体形’(身長&体重)は高校二年生から変わっていない。
つまり、アトピーが完治したことで内面は大きく変化した一方、外見上の変化はほぼ無いに等しい(顔と手のシワは別として)
では、同級生の方はどうか?
誰かの漫談で聞いたことある気がするが、
「昔は希望で胸がはち切れそうでした!」
から、
「今は脂肪でお腹がはち切れそうです・・・」
に変わっているではないか。
で、ついでに、
「収入は上がらない」「上がるのは血糖値とコレステロール値ばかり・・・」
と、これも誰かの漫談の通りである。
で、私が「収入は俺も同じ」。「血圧が上がらないだけマシじゃないか?」とフォローを入れると、すかさず「血圧は元々高いから」と取り付く島がない。
「人間、年を取ると話題が健康のことばかりになる」
誰かがそう言っていたが、これは事実かもしれない。
ちなみに、
この同級生達は皆、私からすると「良く出来る優秀な奴」ばかりで、事実、日本人
なら誰もが知っている有名大学に現役合格後、これまた誰もが知っている有名企業
に就職した。
「これから、こーゆう奴らと人生での『差』が付いていくんだろうな・・・」
その『差』が何か?深く考えることも無く、当時の私は漠然とそう感じていた。で、この思いは、彼らと会って酔いがまわるまでそのまま継続されていた。
「三高」。
これは自分達の世代が結婚するタイミング、つまりバブル期に女性が結婚相手を探すひとつの基準となったものだが、「高身長」はさておき、「高学歴」と「高収入」は自分にはなく彼らにはあったものだ。
で、これまた裏付けのない漠然とした思いながら、「彼らは幸福な筈」だった。
ところが、実際はそーでもなかった。
ちなみに、この類の話はその場の雰囲気を盛り上げるために自虐ネタとしてその本人が自作自演するケースもあるが、今回はそうではなかった。
と言うか、わざわざ自虐ネタを披露するような年齢でもない。
経済的に不自由なく、社会的な地位もあり、家庭的にも問題ない(ように見えた)。
そんな人間が幸福ではない理由ってなんだ?
すると、同級生のひとりが言った。
「さみしいんだよ」
「自分の人生に寂しさを感じる」と。
「・・・・・・・」
これには正直、応えようがない。
で、今後、自分がそんな心境に陥るのかどうかも分からない。が、私の場合、自分がアトピーになり、そのアトピーに苦しみ、そのアトピーを治し、そして現在に至る様々な過程を経て今、思うことがある。
それは例えば、
財産とか仕事とか他人の評価とか、そーゆうものだけを求めて、自分の存在価値や存在意義と言う視点で自己を確認、認識しなかったら、自ずと寂しさは常に自分自身の中にあって離れない気がする。
事実、これは実験可能なのだが「今日は一日だけ他人との関係、利害だけを意識して過ごしてみよう」と思って実際やってみると、結果は直ぐにでる筈だ。
しんどい。
で、この「しんどさ」も表面的なものとして「あーあ、疲れた」程度で済むならならまだしも、その根底に無意識の頑張りなんかがあって、潜在化すると厄介なことになる。
で、実際、しんどくなったらどーするのか?
実際、同級生との会話でも、そんな話題になった。
で、私の答えはキッパリ。
「考えないようにする」
そう。考えない。
これが私のやり方。とてもシンプルなのだ。
考えるから、いや、考えるからこそ、いろいろ厄介な思いが浮かび、それと自分が同一なように思えてくる。そもそもそれを考えなければ、それは「ない」ことだ。
すると、同級生から反論を食らう。
「おいおい。そんなこと無理だろ」
「考えない訳にはいかないのだから・・・」
が、私は思うのだ。
「確かに、人間は考えることなしには生きてはいけないし、事実、考えることそのものは悪いことではない。だが、考えると寂しくなると事前に分かっているのに何故考える必要があるのだ」
実際、多くの場合、私達が悩み、苦しんでいる時には「考え」ているのではない。その本質的なことの周囲をグルグル回っているだけなのだ。
これは、自分がアトピーの時、もう嫌と言う程経験した。
話は変わるが、実際に自分で直接的な経験をしないままアタマで「考えた結果」を重要視すると、世界的な惨事を招くケースもある。
「こうすれば、きっとこうなる」
私自身、ついついそんな風に考えてしまう。
が、私は最初から自分の「考え」とか「信念」とか「信条」なんてものを信じないようにしている。そんなものには何の実体もないからだ。
だから、できるだけ何でも自分で試してみることにしている。
そして、他人の評価ではなく、そこに自分の存在価値、存在根拠的なものを求める。
すると、意外かもしれないけど、「寂しさ」なんてはあまり感じないものだ。
将来的なことは分からないけれど、今の自分はそんな気がする。