飛鳥旬のブログ

自分のアトピーは自分で治そう!

二重構造

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再び十津川へ

素晴らしい好天に恵まれた週末。

慌しい日常を離れて十津川の大自然に身を委ねていると、ふと不思議な感覚に陥ることがある。

川のせせらぎ。
風にそよぐ木々の音。

そんなシンプルな現実にただただ寄り添っていると、どういう訳か「私」とか「自分」と言った感覚が薄れる。と同時に、普段なら次から次へと押し寄せてく「思考」の波が静止する瞬間にも気付く。

だが、普段の自分は違う。

「得?」「損?」
「良い?」「悪い?」
「好き?」「嫌い?」
「効率的?」「非効率?」

常に「判断」し「思考」している。

多分、こういった類の「判断」や「思考」は生きる上での必須なのだろう。

例えば、

「安全?」「危険?」

この判断基準が曖昧だと、人は生存自体が脅かされてしまう。

飼い猫は安全だが、野生の虎は危険。
体温は37度以下なら安全だが、それ以上はマズイ。

だから、

自分はいつも判断している。

「高い?」「安い?」
「美味い?」「不味い?」
「カッコいい?」「カッコ悪い?」

判断。思考。
書き出せばキリがない。

が、その一方で、

もし人間にとって本当の意味での「自由」があるなら、多分、そこに到達する術はこの「判断」や「思考」の延長線上にはない気がする。

あらゆるものから解放された自由が、「判断」や「思考」の延長にある筈がない。

では、

「本当の自由なんて無いのか?」と言えば、「そんなことはない」と私は思う。

これを体験した人の数は少ない。
世界中を見渡してみても、極めて少数。

が、その「自由」(境地)を獲得した人は確実にいると私は思う。

では、どうすればその「本当の自由」は獲得できるのか?

その答えは、今の私にはわからない。

が、ヒントになるキーワードはある。

それは、「手放す」。


「手放す」
「手放す」
「手放す」

生身の人間にとって、これほど難しいことはないだろう。

事実、自分自身がそうだ。
日々、やっているのは真逆のことばかり。

執着する。握りしめる。追い求める。
いや、なんなら独占したい。何もかも。ホントにキリがない・・・。

なので、自分はもう「手放す」なんて諦めた。
自分には無理なのだ。

その証拠に、いくら「手放す」をやってみても、結局は「手放せない自分」に気付くだけ。そしてそこに執着するだけ。

なのことはない。

それはただ「手放す」を追い求め、執着しているだけなのだ。

で、ある日、私は気付いた。

この構造(カラクリ)は一種のワナだ。

で、そんな構造(カラクリ)に陥るくらいなら、自分は十津川に行く。

川のせせらぎ。
風にそよぐ木々の音。

そんなシンプルな現実にただただ寄り添っているだけで、どういう訳か「私」とか「自分」と言った感覚が薄れる。と同時に、普段なら次から次へと押し寄せてく「思考」の波が静止する瞬間にも気付く。

これは、全く違う構造(カラクリ)ではないか?

この瞬間、自分は別世界にいたではないか?
(と、その最中ではなく後になって気付く)

この感じ(境地?)を言葉や文字で表現するのは困難だが、とにかく自分のような普通の人間でさえ、違う構造の中の世界にいることはわかるじゃないか。

もしかして、お坊さんの修行(座禅とか)ってこーゆうこと?

いや。それはよくわからない。

が、ひとつだけハッキリ言えること、それは「満たされている!」と言う感覚。
(いや、これも言葉にすると微妙にニュアンスが違ってしまう・・・)

「自分でもいいし、自分でなくてもいい・・・」

この構造の中でこの「満たされ感?」を知ってしまえば、「良い」とか「悪い」とか、「損」とか「得」とか、そーゆう判断そのものがあまり重要ではなくなる。


ところで、このような体験を続けるとどうなのだろう?

「生きていてもいいし、死んでも大丈夫」

となるのか?

それはわからないが、少なくとも「死」に対する恐怖は薄らぐ気はする。

ただハッキリしていることがあって、それはアトピーを治した時のように、また腰痛や肩こりを治した時のように、この道には「はい。これで終了!」と言う「終点」がないことだ。

一方、共通している点もあって、それはやはり「自分で」だと思う。