アトピー完治への道 飛鳥旬のブログ

アトピーは治してナンボ

自殺について

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生駒山麓公園


ある女優さんが自殺した。
先日、ある俳優(男性)さんが自殺したばかりなのに・・・

生死の問題。

「人はなぜ生きるのか?」「生きるとは何なのか?」「人は死ねばどうなるのか?」

この問題は若い頃から常に自分の中にあって、正直、今でもまだ決着は付いていないのだが、この歳になって何となく見えてきた感じはある。

大震災、コロナウイルス禍、その他諸々。


この世で生きていると、とにかく予測できない事ばかり起こる。それは個人レベルのことから社会全体の現象まで予測不能なことのオンパレード。コロナ禍がいい例だ。

こんなものは、最初から人智を超えていてる。つまりどんなに科学が進歩しても、未来を完全に把握することなど誰にもできない。

ところが、こんなこんな世の中でも1つだけハッキリしていることがある。

それは国や肌の色や貧富の差に関係なく完全に平等。不公平は一切なし。しかも誰もが確実に体験するもの。

死。これだけは決定的に確実だ。

生きている以上、これは誰も避けることができない。

ところが、

私自身どうかと言うと、過去、この「死」に関しては考えることさえ先送りしてきた。が、50歳を過ぎた頃から、この「死」が現実味を帯びてきた。

身内、友人、知人・・・。
自分と同年代の人達が、ポツリポツリと逝きはじめたからだ。

で、色々あって、今はこんな風に思うのだ。

「人はなぜ生きるのか?」とか「生きる意味」とか、そういう問いは「死ぬこと」から目を離したままでは答えは出ない。逆に言うと「死ぬことの意味」が分かって、初めて「生きることの意味」も分かる。

と、エラそうなことを書いたが、冒頭にも書いた通り、自分自身、この生死の問題はまだ決着は付いていない。

だから、自分は何があっても命ある限り「死ぬ」ではなく「生きる」を選択したい。世間から社会からどんな風に思われても、自分は「生きる」を選ぶ。

格好悪くてもいい。ブサイクな生き方でもいい。贅沢なモノが食べられなくてもいい。高級車が乗れなくたって、仕事が出来なくたって、そんなの関係ねー。だ。

「生きる」と言うことは、そんなこととは全く無関係な所にある。

表現が下品ですこぶる恐縮なのだが、生きるとは、生命活動とは、究極、寝て、食べて、排泄する。たったこれだけのことなのだ。これが本質なのだ。

仕事をしっかりやること。オシャレを楽しむこと。美味しいモノを食べること。趣味を楽しむこと(釣りにいくこと)。全てオーケーだ。

でも、これが出来ないからと言って、地位や名誉や財産が無いからと言って、まるで人としての価値が無いかのように自分や他人を評価し合って苦しむ必要はない。

そんなことしても、結局はしんどいだけなのだ。苦しくなるだけなのだ。

生きよう。


竹内結子さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

努力でなんとかなることとならないこと

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もうすぐ稲刈り


アトピーになって分かったこと。
アトピーを治して分かったこと。は多々ある。

その中でも、その後の人生で自分の考え方に大きく影響を与えたものがある。

それは、世の中には自分の努力でなんとかなる事と、自分の努力だけではどーにもならない事の二つがあるという経験だ。

例えば、

アトピーは努力で治せる病気である。これは間違いない。と言うか、断言してもいいが、アトピーは「治そう!」と決心して、治すための地道な努力を続けることで必ず治る(ようになっている。)

要するに、毎日の生活の中で直面する場面場面において、間違った方向に行かない限り、今では治るのが普通になった。

一方、自分のアトピーを〇〇月〇〇日までに治す。と期限を定めて短期間で治そうとするのは無理がある。と言うか、それは努力の範囲を超えている。

つまり、「治す」は努力で達成できる到達点だが、その到達点を「この日」と自ら定めることは、努力ではどーにもならなら話なのだ。

当然と言えば当然の話だが、この点をしっかり見極めておかないと話がややこしくなる。私自身、このことが分からず、どんどん悪のスパイラルを歩んでしまった。

つまり、こういう話だ。

あれは、自分のアトピーが顔に出始めた頃だった。当時の私は結婚式や展示会とか、それは仕事とかプライベイトに関係なく、とにかく真っ赤に腫上った顔を人前に晒すのが嫌で、目標をその日に定めてアトピーを治そうとしていた。

その結果、アトピーは治らず。
症状的には少し良くなることもあったが、逆に悪化した時もあった。

当然である。

春に植えた稲を、真夏に刈り取ることはできない。夏になれば暑くなり、冬になれば寒くなるのと同様、私のアトピーも来るべき時が来れば治るのに。

このような例はいくらでもある。

英会話なら、コツコツと地道な努力を続けることで喋れるようになるだろう。それは私達に元々、その類の能力が備わっているからだ。事実、アメリカやイギリスに行けば、英語なんて子供でも喋っている。

ところが、空を飛ぶ努力はどうだろう?

ムリだ。いくら努力してみたところで、それは努力が足りないからではない。
私達が空を飛ぶことができない理由は、それが努力の範囲を超えていて、そもそも原理的に無理だからだ。(羽根をくれー!)

で、原理的にムリなことにチャレンジし続けると、どうなるだろう?

それは私の経験では、精神を病んでしまう。
場合によっては、気付かない間にかなりヤバい状況に陥る。

この方向に行くとマズイのは、元々、努力で治る筈のアトピーを自分で治せない方角に舵を切ってしまうからだ。

だからアトピーを治す場合、必要以上の「あーしてやろう・・」や「こーしてやろう・・」の目論見は持たない方が良い気がする。

アトピーなんてものはどんなに症状が酷くても、やるべきことをキチンと継続していれば治るようになっているものなのだ。そこに「一刻も早く」とか「何が何でもあの日までに」等と言う意図が介在すると、それは正直言って邪魔になる。

アトピーになり、アトピーを治してみて、私は何かの問題に直面した場合、それが努力で解決できるものなのか?それとも努力の範囲を超えたものなのか?それを自問自答する癖が付いた。

で、もし解決できるなら、それは短期決戦なのか、それとも長期戦になるのか?そーゆうことも考えるようになった。

一方、自分の努力だけではどうにもできない場合は?

考えない(ことにしている。)何故、考えないか?それは考え出すと、キリがないし、その結果はロクなことにならないからだ。

実際やってみると分かるが、努力してもどうにもならないことに対してあれこれ考えてみた所で、普通はロクなことを考えない。多分、人間とはそういう風に出来ているのではないかと思う。

逆に、「考えない」ことの効果は絶大だ。いいことばかり。
具体的に言うと、夜、熟睡できる。ついでに「飯も美味い」。

難しい理論は分からないが、多分、これだけで私は自分が鬱病とかノイローゼとか、いわゆる「精神疾患」には成らないような気がする。

「努力すれば必ず報われる。」

私はそんな風に教え込まれた世代の人間だ。
そして、それはその通りの時もあったけれど、そうでもない時も多々あった。

何でもかんでも、努力すればイイってもんでもない。
このことはアトピーを治してみて分かった。

恐れるものなど何もない

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生駒山


先月、アトピー新時代の話を少しした。

簡単に言うと、アトピー新時代とはそれまでの身体的なアプローチだけで完治していたアトピーが新たな局面を迎えたと言う意味で、特にここ10年ほどの間に、今までのカテゴリーには入らないタイプの人が増えているような気がする。

で、もう少し説明すると、それは身体的なアプローチに加えて、精神面、つまりメンタル面からのアプローチを必要としているタイプの人達で、このタイプに属するアトピー患者に対して、既存の医療システムの枠組みだけで治癒させるのは難しい気がする。

では、このタイプのアトピー患者の中に潜んでいる精神的なものとは何か?

それを具体的な例を挙げて説明するのは難しいのだが、いづれにせよその根底にあるのは「自己を肯定できない感覚」なようなものだと私は感じている。

職場での人間関係、夫婦間の問題、家族間の問題。

この手の悩みやストレスは、何も今に始まった話ではない。これらの問題は多かれ少なかれ昔からあったし、今後も無くなることは無いだろう。

で、これはあくまで私個人の感想であり根拠も論拠もないのだが、「自己を肯定できない感覚」の原因は、社会での格差が拡大したことに起因しているような気がしている。

数十年前、日本は中流社会と言われていた。

このことは実感としてよく分かる。
事実、私の同級生を見渡しても、超裕福でお金持ちと言われる友達は学年にせいぜい2・3人。で、その友達の親と言えば、大抵、会社の社長だったりしたものだ。

ところが現在、日本は中流社会ではなくなった。
つまり、ここ20年の間に「お金を持っている人」と「お金を持っていない人」の二極化が進んでしまったのだ。で、その結果、「貧富の差」が生じるようになった。

で、問題はここからなのだが、お金が「ある」とか「ない」と言う現実はそこから更に「〇〇を所有できない自分」とか「結婚できない自分」というような価値観と結びついてしまう傾向になる。「勝ち組」「負け組」等の表現はその代表例だろう。

お金が「ある」とか「ない」とか「高級車に乗る」とか「結婚しない」というのは、本来、人間の価値とは何の関係もない話で、それは人生観の問題。「勝ち」「負け」の話ではない。

ところが、この辺りの話が頭の中でグチャグチャになってしまうと厄介だ。

何故か?それは、自分を肯定できなくなってしまうからだ。

お金の無い自分と本来の自分。これが見事に同一化してしまうのだ。その結果、自分で「お金が無く結婚もできない自分」のレッテルを貼ってしまうことになる。

すると、その流れからマイナスのオーラで自分の身を覆うことになるのだが、厄介なのは、このマイナスオーラと言うのは必ずしも「心地悪い」ものではなく、むしろ心と身体を引き離す際には、逆に「心地よく」感じてしまうのだ。

これでは、アトピーを治すどころの話ではない。

アトピーを治す前提条件として、心と身体は常に一緒であることが望ましい。こんなことを医療機関では言われることは無いだろうが、実際はそういうことなのだ。

だから最低限の歯止めとして、ロクでもないことを考えていることに気付いた時には、「アカン」「アカン」と自分に戻ることが大切なのだ。

アトピーが酷い時、「アトピーのことを考えるな。気にするな。」と言う忠告が酷であることは重々承知の上で言うのだが、それは普段からの生活習慣を変えることで十分対処できる。

それを具体的に言うと、

クルマの運転をしている時は、運転に集中。
料理をしている時は、料理を作ることに集中。
歯を磨いている時は、歯を磨くことに集中。

これだけ。
これが心と身体を同一化させる一番の方法。

で、逆に、心と身体をバラバラにしてイライラ&ノイローゼに陥る秘訣も紹介。

それは、今の自分に集中せず、過去のことや未来のことをあれこれと空想する。あの時はあーだった、こーだったと悔やみ、まだ来ない将来を空想しては悲観する。すると見事に心と身体はバラバラに空中分解。

恐れるものなどなにもない。

アトピーなんてやることキチンとやれば、勝手に治るようになっているのだから。

「治す」よりも「治る」

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散歩道にある稲


「治す」よりも「治る」。

アトピーの場合、こっちの方が現実的な感覚に近い気がする。

15歳で発症したアトピーが、キレイさっぱり完治したのは33歳の時だが、その時の印象は、こんな感じ。

「こんなもんか・・・」「やれやれ・・・」

痒みが消えたこと自体は嬉しいのだが、「治った」と言う現実に対しては少し拍子抜けした感じ。それは全然衝撃的ではなかったし、感動的でもなかったからだ。

「これをこーすればこうなるよね」的な、極めてシンプルな世界。

それが、アトピーを治すと言うこと。つまり治療なのだと言うことを身を以て知った。そしてこの経験は、その後の私の考え方や人生に影響を与え続けた。

アトピーを自力で治す。

このように書けば、いかにも自発的で能動的な感じがする。で、そのことは必ずしも悪いことではないのだが、現実に即して言えば、自発的でなくても能動的でなくても、アトピーアトピーを治すための考え方と行動が身に付ければ治る。これが真実だ。

そして、そこには『私」とか「彼」とか「彼女」とかの制限はなく、単に原因と結果の世界があるだけ。だから「治す」と言った主観的な言葉より、「治る」と言った客観的な言葉の方が現実に即している気がする。

ところが、人生は面白い。

私が、自分のアトピーを治したのは33歳。この時、私は自分のアトピーを自分の力で「治した」と思っていたので、とにかくその事実を誰かに伝えたくて仕方なかった。

要するに、それは当時の医療機関アトピー治療に対していかに無力であるか、そして、その厄介なアトピーを自力で治した自説&持論を聞いて欲しかったのだ。

で、私が何をしたかと言うと、会社の後輩に話しまくった。

後輩だけではない。私がアトピーだったことを知らない人がいれば、とにかくその話を持ちかけた。今思えば迷惑な話だが、当時の私はそれほど「オレは自分でアトピーを治したんだ!」と訴えたかった。

で、その結果だが、アトピーに関心のない人に対してアトピーの話をしても、当然、興味はない。それはギャンブルに感心の無い人に対して、競馬必勝法やパチンコ攻略法を自慢げに語るようなものだ。と言うことに気付いた。

と同時に、この時、私はハッと目が覚めた。

「自分がアトピーであることなんて、他人は全然気にしていない。」

私は自分がアトピーの時、周囲の視線が気になって仕方なかった。それはアトピーである自分を人はどのように観ているか?に対する恐れに近い感覚だったのだが、そんなものは幻想に過ぎないことを、この時、気付いた。

自分がアトピーのことばかり考えていた時、他の人は私のアトピーのことを考えている訳ではなく、自分のことを考えていたのだ。それは自分の小さなニキビのことかもしれないけれど、とにかくそこに種類や程度は関係なく、圧倒的な時間、人は自分のことを考えている。このことに気付いた。

話を戻そう。

アトピーを治す場合、私は一旦「自分自身」から少しだけ距離を置いて接するのがいい気がする。できるなら「自分」「自分」「オレが」「オレが」と言うスタンスではなく、一旦、主観的な見方から離れてしまう方が良いように思うのだ。

何故なら、主観が入ると、それに伴って肩に力が入るように思えるからだ。どこかに力みが入り、自然体でいることが難しくなる。これが良くない。

力んでも力まなくても、アトピーは治る時は治るし、治らない時は治らない。
それは、原因と結果が根底にあるからで、自分とかオレとか、そういうものは殆ど関係がない。だから、本気でアトピーを治したいなら、アトピーを治すための日常を淡々と続けるだけ。これが原因となる訳で、その結果が完治。

だがら、私(オレ)が「治す」よりも、自ずと「治る」。

台風10号接近中。

ご注意あれ。



アトピーは治してナンボ

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箕面の滝


アトピーは「治してナンボ」と思っている。
このスタンスは昔から変わらないのだが、最近、益々そう思うようになった。

アトピーは治してナンボ。
つまり「アトピーはやはり完治させなきゃ・・」と言いたい訳だが、だからと言って、それは必ずしも「結果がすべて」と言う意味ではない。

この点に関して、むしろ自分は結果論者ではないと思っていて、これは自分が今まで歩んできた経験に照らしてみてもそうだ。要するに、大切なのは「結果」より「過程」、つまりプロセスであり、プロセスこそがその後の人生の糧であり、結果なんかに縛られているとロクなことにはならない。と思っている。

身近な例として、仕事上の失敗がある。

仕事でミスをしたとする。
そして、そのことで周囲に迷惑を掛けてしまったとする。ミスしたことは事実。また迷惑を掛けたことも事実。それはひとつの結果ではある。

だが人間と言うのはそもそもミスや失敗を犯す生き物だし、見方を変えればミスや失敗を犯さないなら、それはもはや人間ではない。ともいえる。

つまり、この世に生きている以上、他人に迷惑を掛けず生きていける者は誰もいないのが現実で、そういう前提なら、重要なのは失敗しないことより、失敗に至ったプロセス(過程)を直視すること。或いは失敗に対しては、自他ともに寛容になること。と言った人生訓のような流れになる訳だが、これはこれで自分も「確かに・・」と思う部分はある。

事実、何かの失敗をした場合、その失敗の原因を究明することで、その後、少なくとも同じ類の失敗の数は減る。これが現実だ。

ところが、
とろころが・・・。である。

アトピーだけは事情が違う。と思うのだ。
つまりアトピーの場合、完治させない限り、そこに至るまでのプロセスには殆ど意味が無いように思うのだ。言い方を変えると、アトピーと言う病気はは治してこそ、初めてそれまでのプロセスの意味が見えてくる仕組みになっている。

その証拠に、今、アトピーの人がその原因を究明しようと頑張ってみても、多分、原因は見えてこない。そうではなくて、アトピーを完治させてこそ初めて、「あれが原因だったのか・・・」となる。これが現実なのだ。

だから、アトピーは治してナンボ。

で、こんな風に言うと少し大袈裟に聞こえるかも知れないが、自力でアトピーを治してみると、そこにはその本人しか知ることの出来ない体験ゾーンと言うか、人生からのプレゼントと言うか、上手く表現できないけれど、要するに完治に至るまでの過程(プロセス)が、その後の人生への大きなプレゼントになっていることを経験するはずだ。

生きている限り、良いこともあれば、悪いこともある。

良いことばかりが続かないように、悪いことばかりも続かない。と言うか、巨視的に観れば、「良い」も「悪い」もないかもしれない。

アトピーは自分で治そう!と決心して治せる病気であり、誰かに治して貰う病気でもなければ、クスリでコントロールするような疾患でもない。

で、必ずしもクスリで症状をコントロールすることが悪いとは言わないが、それは「完治」とは雲泥の差であることだけは事実である。

私は自分経験から、アトピーごときに人生をメチャクチャにされるのは避ける方が良いし、それは十分可能だと言いたいのだ。正直言って、アトピーと対峙している時間は勿体ない。それなら、その時間をもっと有意義なことに使う方が良いと思う。

それは充分可能なのだから。

アトピー新時代

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大好きな奈良県十津川村の風景

昨日、59回目の誕生日を迎えた。

59歳と言えば、阪本竜馬や西郷隆盛織田信長よりも遥かに年上ではないか。そんな今の自分を振り返ってみると、ふと不思議な気持ちになる。

それは今の自分と10代・20代の自分、或いは30代・40代の自分では違う人物のように思えてしまうこと。身体の変化は分かり易い。(あまり見たくないが・・・)。一方、何かに対する考え方や感じ方、反応の仕方も大きく変化していることに気付く。

世の中は常に変化している。一方、自分も常に変化している。

これが「無常」と言うものか?
これが「無我」と言うものか?

若い頃、「オレはオレ」なんて思っていたが、「オレと呼べる唯一無二の自分」なんてあるのかな?と思う今日この頃である。

さてそんな私ではあるが、人格形成というか、とにかく今の自分を形成している根底には、アトピー時代の出来事や経験が大きく関与しているように思える。

中でも一番強く感じるのは、いわゆる世間的な常識とか価値観に対して「ちょっと待て・・・」と言う感覚がこの当時の経験を通じて芽生えたことだ。

私のアトピー時代。
それは、過去のアトピー常識と価値観が通用しなくなる時代の幕開けだった(ように思う)。

事実、私は自分のアトピーをそれまでの延長戦上にある治療法では治しておらず、それは、ステロイドを使って「運がよけれ治る」的なものとは根本から違っていた。とは言え、私のアトピー以前なら、従来型のステロイドを中心とした治療法でも十分対応できていたし、そもそも私のような成人型のアトピー患者の数自体が少なかったこともまた事実である。

あれから数十年。

その間、ずっとアトピー患者の方々と接してきてみて今、感じることがある。それはアトピーと言う病気の治し方が新たな局面を迎えていると言う点である。

それを大雑把に言うとこんな感じ。

第Ⅰ期(1970年代まで)
アトピー患者がまだ子供中心だった時代。ステロイド外用薬を中心とした治療でそれなりの効果があった。この頃はアトピーより小児喘息の方が数は多かったように思う。

第Ⅱ期間(1970~2010年頃)
成人型アトピーの増加が顕著になった時代。ステロイド一辺倒の治療に限界、マスコミによる「ステロイドバッシング」が勃発。私はこの時代の初期の患者で、いわゆるステロイド皮膚症やリバウンドの経験から、全くステロイドを使わずに自力で完治させた。

第Ⅲ期(2010~現在)
メンタル型アトピー患者の時代。この「メンタル型アトピー」は私の造語だが、要するに、治療には身体的なアプローチだけではなく、同時に精神面からのアプローチが必要となるアトピーパターンで、簡単に言えば患者が抱えている潜在的なメンタルの悩み・苦しみを氷解させる治療が必要で、この点を無視すると快便・快食・快眠さえもままならず、身体的な変化も望めない。

と、このように書くと、お先真っ暗な感じだが、全然そんなことはない。と言うか、ここにはむしろ大きなチャンスが潜んでいる。

今後、このことに関しては順次紹介していきたいと思うが、今回そのヒントを記しておくと、それは「無条件降伏」という言葉がピッタリな感じがする。

そう。「無条件降伏」。

「無条件降伏!?」。
分からないですね?

太平洋戦争で日本が受け入れたポツダム宣言
あれ「無条件降伏」です。で、その後、無条件降伏を受け入れた日本はどうなった?

と言うか、無条件降伏を受け入れなかったら?今頃日本は・・・
そっちの方がヤバかった気もします。

アトピーと言う病気は強靭な精神力だけで立ち向かおうとすると粉砕されます(多分)。で、これに勝とうと思えば、相手以上にこちらが柔軟になる。

そうすれば、アトピーの方から「止めておこう。こんなの相手にするのは・・・」

と言うことで、今回はこの辺りで。

 

最初にやること

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今日の生駒山


アトピーだった頃、いろんなトラブルに遭遇した。

それは、必ずしもアトピーが理由のものばかりでなく、アトピーも含めて、当時の自分がトラブルに遭遇しやすい体質の人間だった。と言うのは大いにある。

例えば、こんな感じ。

トラブルに遭遇する。
その結果、痛い目に遇う。
で、「もう二度とこんな痛い目には逢いたくない!」と思う。

ここまでは問題ない。
多分、大半の人がここまでなら同じ筈。

ところが、問題はここから。

それほど痛い目に遇ったのなら、何らかの対策を打ってもよさそうなものだが、大抵の場合、当時の私はしなかった。

「こーゆうことは今回限り・・・」

「同じことはもう起こらない・・・」

楽天的と言えば楽天的。
実際、何もしなくても、時間が解決してくれることは多々ある。

「私はいつも忙しい。」
「そんなことイチイチ考えている暇はない。」

心のどこかでは、そんな言い訳もあった。

で、その後はどうなったか?

そのまま何もしなくても、消えた問題もゼロではない。
その一方ではアトピーを含め、生活上のトラブルや厄介な出来事は無くなるどころか一層巨大化した。まだ目の前のトラブルさえ解決していないのに、そこに覆いかぶさるように新たなトラブルが次から次へとやってきた。

こーゆうことが数年続いた。
で、確かあれは30歳を目前にした頃だった思う。

自分の力ではどうすることも出来ないディープな問題に直面した。
事実、それはもう自分の努力の範囲を超えていて、自分ではどーすることもできない出来事だった。

この経験を通じて、私は変わったように思う。

人生には「自分の努力で何とかなる事と努力だけではどーにもならない事がある」

この思いは、ある日を境に突然芽生えたものではなく、ゆっくりゆっくり時間を掛けて私の中で定着していったものだろう。

ところで、
日々遭遇するトラブルや厄介な出来事に遭遇した際、私達はどんな風に対処すればいいのだろう?

当然、具体的な対処法は問題の内容や質に拠るだろう。
その一方で厄介な問題やトラブルに向き合う場合は、その際の心構えと言うか、心のあり方によって、結果が大きく左右することは多々経験してきた。

もう少し具体的に言うと、私の場合、厄介なトラブルや問題に遭遇すると、まずその瞬間から自分の「行動スピード」を極端に落とす。

行動スピードとは喋ったり、書いたり、読んだり、飲んだり、食べたり。
とにかく、自分の全ての動きをワンテンポ遅くする。

何故か?

それは、心を落ち着けるためだ。
人は普段経験しないような厄介な問題に直面した際、まず心が揺れる。心が揺れると言う状態は平常心では無い状態だから、当然、普段ではしないような間違った判断を下しやすくなる。

で、問題はここなのだが、心が揺れて平常心を失っている時、「落ちつけ」「落ちつけ」と自分に言い聞かせて、それで実際、心は落ち着くだろうか?

私の経験上、これはほぼ不可能に近い。と言うか、無理だ。

そう。無理なのだ。
普段から心の鍛錬をしている人なら話は別だが、いきなり「落ちつけ」「落ちつけ」と自身に言い聞かせた所で、普通の人の心はそんなに簡単に落ち着くものではない。

だから、こーゆう時は「心」からアプローチするのではなく、まずは「体」の方からアプローチする方が効果的なのだ。

だから、「落ち漬け」「落ち漬け」と心に向かって言い聞かせるのではなく、手足を含めた体全ての行動のスピードを落すと、自ずと心もスピードを落とす。

これはある意味、深呼吸と同じ効果だが、持続性と言う面からは深呼吸より効果はある。(勿論、即効性では深呼吸の方が効果はあるが。)


それからもうひとつ。

「胃腸の健全化」を目指す場合、普段より意識して行動スピードを落とすことはかなり効果的で、特に「腹八分目」や「お腹減った!」と感じてから食べる生活習慣を身に付けるには、心がフワフワとした状態のままだとまくゆかない。

実際、生きていると「わかっちゃいるけど、やめられない」と言うことは多いが、この場合、私の経験からすると、直接心からアプローチするやり方よりも、一旦体を通じてアプローチするやり方の方が結果は出やすい。