うつ病を直前に回避した時の話
うつ病に関するメールを頂く機会が多くなった。
いや、正確に言うと、うつ病そのものではなく、うつ病と診断されたことで調子の良かったアトピーも悪化、または再発した。と言う話である。
今まで触れる機会は無かったが、実は私自身、「うつ病」とは診断されてはいないものの、かなりヤバいと感じる時期があった。
今回はその時の話。
元々、首の痒みから始まったアトピーが、体全体に広がるまでに要した期間はおよそ10年。が、せめてもの救いは「顔」だけがアトピーではなかったこと。
ところが20代の後半、遂にアトピーは顔まで広がった。
恐らく、この辺りが「精神を病む」キッカケだったと思う。
「どうしたの!その顔!?」
このリアクションにほとほと嫌気の差した私は、人と接することを極端に嫌った。
これが、事の発端である。
「人と話したくない!」
「もう全然、人と接したくない!」
一度そういう感情が芽生えると、その感情は仕事だけにとどまらず、プライベートにまで及んだ。
外出するのは「釣り」の時だけ。
で、自宅では釣り雑誌と、釣り道具のカタログばかり眺める日々が続いた。
外食はせず、楽しみにしていた同窓会も欠席した。
こうして私は、「自分がアトピーである」と言う現実から逃避するようになった。
ところが不思議なもので、「自分がアトピーである」現実から逃避すればするほど、「自分」=「アトピー」の認識は現実味を帯びて迫ってくる。
いつも頭の中は、「自分」と「アトピー」のことばかり。
で、遂に自分の住む世界が、「自分」と「アトピー」だけのような感覚に陥った。
脱ステを決行したのは、そんな日々が数年続いたある日。
その頃、私のアタマは「自分」「アトピー」の他に「ステロイド」「ステロイドを製造したメーカー」「ステロイドを処方した皮膚科医」「憎い」のキーワードと「自己嫌悪」で占有されていた。
つまり、当時の私は自分と自分を取り巻く環境に対して憎悪を抱きながら、その憎悪に自己嫌悪を抱くと言う、もうグチャグチャな精神状態で生きていた。
そして、遂に審判の下る日がやってきた。
脱ステによる猛烈なリバウンド。
体に力が入らず、自力でトイレにいけなくなった。
無惨にも、顔中が真っ赤な斑点で覆い尽くされた。
恐怖からパニックに陥り、緊急入院を余儀なくされた。
それが「うつ病」なのか「パニック障害」なのか、それとも「適応障害」なのか、病名は分からないが、当時の私は精神的にまともではなかった。
「目に見えない何かに圧し潰される!」
そんな脅迫感が頭から離れない。
ところが、
ところが、
ところが、
入院先の病院で、私は微妙な変化を感じることになる。
それは、身体面だけではなく精神面においても。
キッカケは、入院患者同士の他愛もない会話。
当時、入院先の病院ではアトピー患者が20名ほど入院治療しており、春休みの時期と重なり、学生を含めて患者は自分より年下の者が大半だった。
自然な流れとして、年長の自分は彼らの話の「聞き役」となった。
「アトピーがもとで彼女と別れた・・・」
「アトピーがもとでピアニストへの夢を捨てた・・・」
「アトピーがもとでアルバイトを拒否された・・・」
そこには、人の数だけアトピーの悲劇があった。
が、とにかく自分には「聞く」ことしかできない。
「オレだって大変なんだぞ!」
心の中でそう叫びながら、それでも次から次へと自分の部屋にやってくる彼(彼女)らの話に耳を傾けていた。
すると、私の中の微妙な変化が、大きな変化に変わった。
私のアタマを支配していた「自分」「アトピー」「ステロイド」「皮膚科医」「ステロイド製造メーカー」「憎い」の登場回数が激減したのだ。
完全に消えた訳ではない。が、間違いなく減っている。
早い話、自分のことは「忘れて」いたのだ。
コレを機に、私は自分から積極的に彼らの話に耳を傾けるようにしてみた。で、時には耳を傾けるだけでなく、彼らの人生と自分の生き様を重ねてみたりもした。
すると、不思議なことに急に気持ちが楽になった。
と同時に、今までの自分が「過去」「将来」「空想」「虚構」などなど、いづれも実態のない「思考の産物」に絡め取られていたことに気付いた。
で、私のアトピーが劇的に好転したのは、この事実に気付いた2週間後。
事実、3週間後に私はこの病院を退院して自宅療養にチェンジ。その1か月後には職場に復帰している。アトピーは劇的に好転したのである。
「身体と心は繋がっている・・・」
私がそう確信するのは、この時の体験からだ。
さて、
過去、私は体からのアプローチでアトピーを治す方法をお伝えしてきた。その理由は、精神面からのアプローチは伝えるのが難しく、ある意味、危険を伴うからだ。
だが、精神面を整えることの有効性、スピーディさもよくよく実感している。
私は今でも、「自分」との距離が近づき過ぎてしまうことがある。
そんな時、思い出すのは当時のこの体験。
この体験に普遍性はあるのか?
それはよく分からない。
だが、精神的にキツいと感じた時、実態のない「思考」に振り回させる回数は減った。
ゴジラのことを考えても恐怖心が芽生えないのは、それが映画(思考)の世界の物語であることを知っているからだ。
それなら今、自分を恐怖で包んでいるその思考は実態のあるものなのか?それとも物語の世界(ゴジラと同じ)なのか?
大抵はこれでケリが付きそうに思える。