クスリに付いて思うコト
職場の雰囲気が怪しくなってきた。
「怪しい」と言っても、事件性のある話ではなく健康に関する話なのだが、最近、体調を崩す人が自分の周囲でも目立ってきた。
尿道結石とか糖尿病とか病名がハッキリしている人がいる一方、検査しても原因が分からず全身的な倦怠感やふらつき、動悸、頭痛などを訴える人もいる。
「眠れない・・・」
2年先輩の男性が昼食時、そう呟いたのは約1か月前。
その先輩が先週、医師から処方された「睡眠導入剤」を「睡眠薬」に切り替えたらしい。
「睡眠導入剤」と「睡眠薬」
その違いを自分はよく知らない。そしてそれが医師の指示なら私がどーこーの言う話でもないのだが、彼の様子が明らかに今までとは違う。で、その様子の違いをひとつひとつ列挙するつもりはないが、注意力・集中力が低下しているのは一目瞭然だ。
このような現実に直面した時、いつも考えさせられることがある。
それは、「クスリ」というものの存在意義だ。
ちなみに私自身、クスリのお世話になるケースは多いタイプである。
「少し熱っぽいかな?」
そう感じた時は直ぐに飲めるよう「葛根湯」は常に鞄の中に入れてあるし、油ぽい食事の後、胃の調子が悪い時にはすかさず「太田胃散」。
で、熱っぽい時は休息を心掛け無理はしない。で、その日はとっとと寝る。胃の調子が悪くなれば、少なくとも2.3日は食事の量を減らす。
と言う具合に、なにか初期症状が出た時には少し用心することにしている。
で、こんな感じで使っている限り、クスリは本当に重宝な存在だと感じる。
ところがところが、だ。
アトピーの時、私のクスリの使い方はこんな風ではなかった。
「かゆい!」
と感じたら、ステロイドを塗る。
これでエブリシングOK! ザッツオール!
「そんなワケないやん…」
と、今なら思うのだが、当時の私はまだ10代。若すぎた・・・。で、これが「地獄の始まり」と言う話は今回さておき、話題をクスリに戻そう。
クスリって・・・
別にそれを使用すること自体は問題ない。と私は思う。
「ステロイドは悪魔の薬!」と叫ばれたのはもうひと昔前の話。ステロイドだろうが、血圧を下げるクスリだろうが基本は同じと思うのだが、大切なのはそのクスリで症状を好転させている間に、根本的な治療に着手することではなかろうか?
血圧が高い。
これは今既に起こっている現実で、この現実に対処するためにクスリは有効だろうが、クスリは高血圧そのものを治している訳では全くない。
なので、クスリで症状を改善させている時間を活用しながら、自分は根本的な治療に着手しなくてはいけないのだ。(時間を稼いでくれるクスリに感謝しながら・・・)
これがクスリの役割であり、同時に限界とも思うのだ。
ステロイドを忌み嫌い、ステロイドを製造している製薬メーカーを爆破したいと考えた当時の私自身の懺悔の意味を込めて。
身体も心も変わるのが人間
春はもう、そこまで来ている。
愛犬と散歩していると、そんな季節の移り変わりを五感で感じる。と同時に、季節と同様、人も皆、「移り変わるもの」と言う現実に気付く。
人間、身体も心も、同じ位置でじっとしているなんてことは全くない。
自分自身、それまでの考え方や生き方を大きく変えた出来事と言えば、それはやはりアトピーだろう。極端な言い方をすれば、私の性格や考え方はアトピーが治ったタイミングを境にして180度急転回している。
で、実際、このことは私だけでなく、親戚の者が皆が認めている事実でもある。
元々、私は落ち着きの無い性格で極端な飽き性だ。
習字、そろばん等の習い事は3か月持たず。あれほど夢中だった野球や空手、ギター、投げ釣りでさえ途中で投げ出した。
で、この続けることができない性格は、アトピー治療の時も大いに発揮された。
漢方薬、健康食品、体操、ヨガ等々・・・。
今となっては逆に「続けなくて良かった」と思うものもあるが、とにかく私の「飽き性」と言うか「続けることが苦手」な性格は、アトピーを治した時点を境に急転回することになる。
例を挙げると、このブログ。
HPの作成から始まりメルマガ配信、ブログ、SNSと形は変化しても、アトピー読者との交流や情報交換はもう20年以上続いている。
これは、20代の自分からは想像もできない快挙?かもしれない。
もうひとつ。
元々、私はどちらかと言うと完璧主義者と言うか、とにかく筋の通らない話が嫌いで、またそういうタイプの人も好きではなかった。
ところが今は違う。
この点はアトピーを治したやり方がモロに影響しているのだが、今の自分は自他共に認める65点主義者である。
65点主義の特徴をまとめると以下のようになる。
- 瞬発風速的な努力・頑張り方をしない。
- 極端に「好き」「嫌い」の区別をつけない。
- 極端に「良い」「悪い」の区別もつけない。
で、アトピーの治し方、つまりその方法がほぼ出尽くしてしまった感のある今日、この65点主義が完治への大きな突破口になると思う。
梅の花が終わりを迎える頃になれば、次は桜の花が咲く。
そこには
「好き」とか「嫌い」はない。
「良い」とか「悪い」もない。
「必死の頑張り」なんてもっとない。
あるのは、自然の理だけ。
アトピーだって、この自然の理に従っておけばまず治る。
「お腹が減ったら食べる」
「お腹が減っていないなら食べない」
なんとシンプルな!これがアトピー治療!?
が、実際、たったこれだけで、扉は開く。
そして、
奇跡は奇跡でなくなる。
最初から、難しい話なんてなーんもないのだ。
アフターアトピー
アトピーが治ったからと言って、その後の人生が順風満帆なんてあり得ない。
By 飛鳥 旬
経験のある方ならきっと共感頂けると思うが、アトピーなんてものは一旦治ってしまえば、ひと月後にはもう「そんなことあったっけ?」の世界だ。
私達の毎日は忙しい。
そして解決すべき問題が次から次へとやってくる。だからアトピーだった過去を振り返っている暇は無い。
私の場合もそうだった。いや、私だけではない。当然、周囲も私が今までアトピーの人だった事実を離れて、アトピーではない普通の人として接するようになる。
対外的に観れば、このことは嬉しかった。
そして私の場合、アトピーが消えてから対人関係に於いては大きな変化が生じた。
アトピーだった時、私は「相手のことをキチンと観て」「相手の言葉をキチンと聞く」ことが出来なかった。と言うか、相手の目を直視することさえできなかった。
で、頭の中にあるのは常に「自分はどう見られているか?」とか「自分はどう振舞えばいいのか?」と言った、自分が良く見られるための意識だった。
要するに、意識が常に「自分」に向かっていたのだ。
「面白い会話のデキる人」
「オシャレでセンスのある人」
「何でも知ってて知識のある人」
多分、ベースにはこんな理想があったのかもしれない。
ところがアトピーが治った後、私はどうしたことか「聞く側」の人&「見る側」の人に変身していた。
理由は今でもよくわからない。
意図的にそうしようと試みた訳でもないのだが、人と話をする時、相手のことをキチンと観ながら相手の言葉をキチンと聞いている人が少数であることに気付いた。
実際、普段の会話で相手の話を「聞く」ことや、相手のことを「理解すること」の重要性が問われることはまずない。
そんなことをしても「得」は無いから、「何でも知っているオシャレで面白い会話のデキる自分」を目指そうとするのも分からない話ではない。
しかし、この目指した自分の先にあるのは何だろう?
正直、私にはわからない。
しかし、私が今、自分の経験上ハッキリと断言できることがある。
それは、周囲から「自分はどう見られているか?」とか「自分はどう振舞えばいいのか?」みたいなことを気にするのではなく、身近な相手に少しでも関心を持ち、理解しようとすることだ。
何故こんなことを書くのか?
それは、この思考&行為が直接アトピーに効くからだ。で、これは世間一般によくある「アトピーに効く〇〇〇!」的なモノより遥かに持続力もあるのだが、まだ多くの方々はこの事実に気付いていない。
私自身、エラそうなことを書きながら、この事実を知ったのはアトピーを治した後、読者の皆さんとのブログを通じてだ。
ひと昔前なら「そんな精神論でアトピーが治る訳ねーだろ!」の非難コメントがきそうな感じがする。
でも、もういいのだ。着たら着たで。
人間には身体と心があって、その両面からアプローチする方がアトピーは確実に治しやすいのだから。
何もかもひっくるめての人生
福島県を中心にまた大きな地震があった。
「また東北か!」
そう思いながら、ふと十年前の記憶がよみがえった。
十年と言えば、やっと復旧の目途が立った頃ではなかったか?いや、詳しいことは分からないが、まだまだ復旧の目途さえ立っていない地区も多いと聞く。
いずれにせよ、このまま地震が沈静化することを願うばかりだ。
「それにしても・・・」と思う。
地震、台風などの天変地異からウイルスによる世界的な感染症の流布まで、今まで経験したことのない規模の出来事が次々と起こるのは何故だろう?
当然、答えなんて出る筈もないのだが、私はこんな風に思うことにした。
「それが自然現象なのだ」「それが人生なのだ」と。
天変地異があるからこそ、何気ない普段の生活が愛おしく感じられる。
ウイルスが蔓延するからこそ、平和で健康な日々の大切さが身に染みる。
そして、死があるからこそ、生きている時間の尊さも実感できる。
アトピーだった頃、私はいわゆる「自分探しの旅」に出で、「生きる意味」を模索したいと思ったことがある。
アトピーの自分にホトホト嫌気が差していた二十歳過ぎの頃だった。で、それは結局実現しなかったが、それで良かったと今なら思う。
それは、旅に出たみたところで「自分」なんて見つからないし、まして「生きる意味」なんて絶対にわかる筈がないからだ。
もし本当に「生きる意味」を知りたいなら、それは「死」と真剣に対峙するしかないし、そのことは生きたまま「今の場所」でも可能だと今なら思うからだ。
それはさておき、
「良い」とか「悪い」とか、また「好き」とか「嫌い」とか、そう言うことはある意味仕方ないけれど、これが極端になると、たちまちしんどくなるのは何故だ?
「良い」も「悪い」も「好き」も「嫌い」も、大局的に見れば、どちらでもいいケースは意外と多いことに後になって気付く。
だったらなにも、自分からしんどくなることもないだろう。
自分は、良いも悪いも、好きも嫌いも、両方ひっくるめての人生を進もう。
今更ながら
「今更ながら・・・」ではあるが、身体と言うのはやはり「こころ」と密接に関係している。そんなことを痛感する今日この頃である。
この現実を最初に実感したのは、アトピーが完治した直後だったと思う。
いや、それまでも薄々感じてはいたのだが、アトピーと言う病(やまい)の渦中だと、「まあ、こんなものか・・・」と思う部分も多々あった。
心配、不安、恐怖心、不信感、その他諸々。
生きている以上、これらの感情は好むと好まざるとに関わらず勝手に湧いてくる。
今まで多くの方からアトピーの相談を受けてきたが、振り返るとその解決策としては、身体的な面より精神的な面に関連するケースの方が多かったように思う。
例えば、こんな感じ。
アトピーと言う病気を治す場合、基本的な治療となるのは排泄機能を高めること。つまり「食べたものを滞りなく出す」体質に移行することで、難しい話ではない。
で、具体的には「少食」。
そして「胃腸の健全化」となる。
で、実際、便通が良くなればそれだけで炎症が消えるので、これは分かりやすい。
ところが、
対策、つまり治療法はこんなに簡単で単純なのに、実際はそんなにうまくゆかない。
なぜなら、人間には「こころ」があるからだ。
「こころ」「心」「精神」。
過去20年の間、自分がひたすら取組んできたのは結局、ここだったようだ。多分、自分がアトピーじゃなかったら、全く関与しない世界だったかもしれない。
禅僧、カトリックのシスター、哲学者カントの純粋理性批判。
若い頃、これらは自分には全く理解できない世界。まるでチンプンカンプン。
「何なのこの人たちは?」「何が楽しい?」「オレには分からん」
それが、この歳になって見える世界も大きく変わった。それはじっと座って、ただ自分と向き合う時間の中でのみ「こころ」のあり方に触れられるから、かもしれない。
そして、このことはずっとアトピーと関わり続け、読者の方々と一緒に考えてきた流れの延長線上にあるもので、きっと自分の財産なのだ。
コロナ禍の今、いつも何かに急き立てられるような日常から少しだけ距離を置いて、静かに自分と向き合う時間。大事にしたいと思う。
2021年からのアトピーの治し方
年が明けてから、早くもひと月。
仕事をしても遊んでも、コロナがあっても無くても、時はまるで「そんなことは知らないよー」と言わんばかりに流れていく。
自分自身、かって重症のアトピー患者だった過去がまるで嘘のようだ。
33歳の時、アトピーが完治した。
それまで散々苦しめられたアトピーだ。その苦しみから解放されたのだから、もっと素直に喜べばいいようなものなのだが、当時の私の心境は必ずしもそうではなかった。
確かに、嬉しいのは嬉しい。
それまで決して着ることのできなかった半袖のTシャツに袖を通した時の感動は今でも憶えているし、とにかく人から顔をジロジロ見られないで済むことが嬉しかった。
その一方、何か割り切れない気持ちがくすぶっていた。
それは、世間では「そんなの常識でしょ?」と思われていることに対する猜疑心だったに違いない。事実、私は当時の常識的なアトピー治療では治っていない。
私がアトピーだった時代、アトピーと消化管の関係に付いて触れている医療機関など皆無で、「成人型アトピーに食事は全く関係ない!」と忠告されたことも一度や二度ではなかった。
で、なにをやってもダメだった訳だが、結局、「胃腸の健全化」に取り組むことで私のアトピーはキレイに消えた。
毎朝、心地よい便が出て、何を食べても‘「美味しい!」と言える食べ方をして、夜は熟睡できるようになった時、アトピーは見事に消えていた。
この頃はもう「アトピーを治したい!」と言う気持ち以上に、「快食」「快便」「快眠」の自分を目指す気持ちの方が強くなっていたように思う。
あれから時が流れた。
自分のアトピーが治ってから、本当に多くの方々と20年間にわたってアトピーの治し方について語り合ってきた。そんな私が今改めて思うのは、やはりアトピーを治すのに難しい理屈やお金は要らない。と言うことだ。
で、とにかく「太くて長い一本の立派な便」を出すことに専念。
もう、これだけに全て注力すればよいのではないかと思う。逆の見方をすれば、便秘や下痢のままアトピーを根本から治すなんて到底無理なのだ。
「何をどれだけ食べたらよいのか?」
「水分はどれだけ摂取すればよいのか?」
それは、人によって個人がある。
しかし個人差があるが故に、確かな便りとなるのはやはり「大便」なのだ。
誰もが安全かつ確実にアトピーを治せる方法があるとするなら、それは「大便」を常に意識して「胃腸の健全化」を目指すやり方だと思う。
「胃腸の健全化」
これは、消化器系がすべての器官の土台である以上、アトピーを治すうえでは避けては通れない訳で、言わばアトピーを治すための「急所」なのだ。
事実、胃腸の働きがよくなり排泄が活発化すると皮膚の炎症が消えるだけでなく、鼻が通って鼻炎も消える。で、頭までスッキリするので夜はよく眠れようになる。
アトピーを治すのに「あーでもない」「こーでもない」と悩んでいるなら、とにかく今年は便通を良くすることに専念してみてはどうだろう。
モチベーションの話
今回は、皆さんからよく頂くご相談のひとつを紹介します。
「治そう!」と思う気持ちはあるのですが、実際にやろうとするとモチベーションが維持できず、ついつい今までの習慣に流されてしまいます。
多少の違いはあるものの、だいたいこんな感じの相談が多いです。
で、このモチベーションに関しては大抵は食事、なかでも少食と向き合う際に苦戦される方が多いようです。
コレは私自身、体感的にもよく分かります。事実、私自身もこれでかなり苦戦&苦労しましたから。
要するに「食べたいのに食べちゃいけない」。この葛藤ですね。で、
- 食欲
- 性欲
- 睡眠欲
この3つは根源的な部分で人間の生存に関わっているので、なかなか一筋縄ではいかないなー。というのが私の正直な感想です。
でもハッキリしているのは、これをモチベーションだけで乗り切ろうとしても、それは最初から負けることが分かっている戦になる。ということですね。
だって、モチベーションなんてものは初めから上昇&下降を繰り返す性質のものだから、常に上昇させておくなんてことはできない訳で・・・
そんな不安定なものを頼りにするより、私ならとっとと逃げます。
言葉を変えると、「逃げる」と言うのは「戦わない」という意味で、最初から相手の土俵には上がらないと言うか、戦いの場を変えると言うか、そんな感じ。
実際にやってみるとよくわかりますが、食欲なんて相手とまともに正面から戦ったら、大抵の人は勝てない。と私は思います。
ボクサーとか映画俳優等が短期的にやる減量は可能でも、一般人がやるダイエットが難しい例を見てもそれは明らかでしょう。
で、「逃げる」を具体的に説明すると、それは食欲以外のこと【モノ】に気持ちを移行して少しでも時間を稼ぐことです。
これは今でも私がよくやる方法なのですが、例えばなにかの対象に心が執着していることに気付いたら、その瞬間、全く違うこと(モノ)に意識を移行する。
全く違うこと(モノ)の具体的例としては、YouTubeを観ることもあれば、ただ呼吸に集中するだけのこともあります。で、時間を稼ぐ。
すると、この稼いだ時間のおかげでステージと言うか、環境が変化している。
コレ、少し難しい表現を使うと「見る側」と「見られる側」の話になるのですが、これが常に同じなんてことはあり得ないので、結構、有効だったりします。
で、もっと平たく言うと、何かを食べたらそれで一巻の終わりなんてことは無いわけで、「アトピーが治るまでの間、好きなお菓子や甘いものは控えましょうね。」と言うだけの話。
で、良いのか悪いのか、それは一概には言えませんが、この辺の経験が後の私の人格形成にかなりの影響を与えていることは事実です。
例えば、「必死のパッチ」と言う阪神タイガースの藤波投手がよく使う関西弁がありますが、同じ関西人でも私にはこの言葉を全く使いません。
それは、私自身が「必死」も「パッチ」も持っていないから。
パッチのことはさておき、今までの人生で何かに「必死」で取り組んだ場合と「普通」に取り組んだ場合で大きな違いを感じたことなんてそんなに無いですもん。
逆に「必死」になって対象との距離感が近くなり過ぎる弊害の方が多いように感じます。
今回は、取り留めもない話になりました。
お互いコロナの感染には注意しましょう。