飛鳥旬のブログ

自分のアトピーは自分で治そう!

やっぱりそうやん!

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散歩道

肩こりが消えた。

あれほどマッサージに行っても整体院に行っても、全然良くならなかったのに。そーゆうものは全部止めて半年、私の肩こりは、きれいさっぱり消えた。

特別なことは何もしていない。

やったことと言えば、朝夕のストレッチ&日々の姿勢に気を付ける事。これだけ。で、私の肩こりは見事に消えた。

慢性的な痛みや痒み。

こういうものを取り除こうと思えば、その痛みや痒みが出ている箇所から一旦離れ、その原因となっている別の箇所をしっかり見極める必要があるし、事実、今回もその通りになった。

肩こりを例に取ると、私の場合、その原因は肩甲骨にあった。

これは必ずしも珍しい話ではなく、肩甲骨の動きが良くなることで肩こりが軽減されるケースは多い。従って日々のストレッチも、この肩甲骨の動きが良くなる動きを取り入れ、後は普段の姿勢に気を付けることを習慣付ける。

肩こりを治すのにいくら肩をマッサージしても治らない理由は、そこに原因がないからで、このことはアトピーも同じ。と言うか、アトピーの方がもっと単純明快かもしれない。

アトピーの症状では皮膚が痒くなるが、痒くなる原因は皮膚そのものにはない。

アトピーを治すには絶対に外せないポイントがあって、それは「胃腸の健全化」だと私は思う。但し「胃腸の健全化」とは単に腸内細菌を整えるようなレベルの話ではないのだが、ここをしっかり見極めないと、それこそ慢性化した大人のアトピーは治すのが難しくなる。

簡単に言えば「胃腸の健全化」とは消化器官が正常に機能していることを意味するのだが、消化器系の働きは自律神経系とも密接な関係にあるから、いわゆる「ストレス」の多い人ほど「胃腸の健全化」も難しくなる。

重い心配事や不安事が重なると、食欲が落ちるのはその典型例だろう。

人体はその防衛反応から極度なストレスに対しては食欲を落とすことで生命を維持しようとするのだが、厄介なことに、アトピーそのものがストレスであることから、自律神経の乱れが消化器の乱れへと繋がるパターンに陥る。これは負のスパイラルだ。

ではどうすればよいのか?

まずは、この負のスパイラルを断ち切ることだ。
その手っ取り早し方法は単純で、負のスパイラルと逆の生活習慣を行うこと。

例えば、私の経験上、人間と言うものは何かに対して「不満」と「感謝」の感情を一緒に抱くことはできないように作られている。これは実際やってみると分かるが、同じタイミングで「不満」と「感謝」は絶対に同居できない。

と言うことは、そもそもストレスと言うのは何かに対する「不満」なのだから、これを一旦引き下がらせて、もう一方の「感謝」を全面に出すような生活習慣を繰り返すことで、自ずと自律神経系は正常な向きに戻りはじめる。

そうすると、正常な方向に向き始めた自律神経系と同期して、今度は消化器系の働きも健全化の方向に向かう。これが正のスパイラル。

他の病気や疾患ことは分からないが、私に言わせればアトピーは当たり前のことを当たり前にキチンとやれば治るのが普通だし、それは肩こりが治るプロセスと変わらない。それはある意味、水が高い所から低い所へ流て行くようなものだ。

 

克服奮闘記4

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リラックス コーヒーでもいかが?


アトピーを治す過程の中で何が一番の障害だったかと言えば、それは間違いなく「悩み過ぎ」「考え過ぎ」だったと思う。このことを教訓にその後の人生で、私はとにかく何らかの問題に直面した際、できるだけ悩まないよう、考え過ぎないようにしている。

問題の解決には、神経を集中して冷静でいる必要はあるが「悩む」必要は全くない。「悩み」過ぎることの弊害は、それこそ嫌と言うほど経験した。

例えば、こんなことがあった。

それは、アトピーが顔に出てからまだ間もない頃の話。ある人から「アトピーなんてこの世から無くなればいいのにね~」と軽く言われた時のことだ。

その人は、嫌味でそう言ったわけでない。
しかしその言葉が本当に心の底から出たものか、それとも口先から出たものか、自分に余裕が無い時ほど、自分が弱者であることに自覚的な時ほど、微妙に、いや必要以上に敏感に感じ取ってしまうものらしい。

あの時、私の本音はこうだった。

アトピーは無くならなくてもいい。」
「自分同様、周囲の皆がアトピーになればいいのだ。」

当時の私には、自分のアトピーが治るより、周囲の人が皆、アトピーになる方がよほど現実味があり、問題が解決するかのように思えた。

この場合、本来、変えなくてはならないのは自分の方なのだが、考え過ぎ、悩み過ぎると、環境&周囲の人間を変えてしまいたい衝動に駆られる。

恐ろしいことに、考え過ぎると、悩み過ぎると、この類の思考がごく普通に芽生える。さらに厄介なのは、その状態(思考)に自身が無自覚でいることだ。

例えば今、熱が出たとしよう。

この熱に対して「コレ、もしかして新型コロナウイルス?」と言う不安が出たとする。で、その不安に対して「では検査を受ける」とか、それなりの行動を取ればいいだけ。ところが厄介なのはただ考え、ただ悩む、こと。

こうなると、話が変な方向に進んでしまう。

アトピーと言うのは真の光に照らし出されたその人本来の姿ではなく、単なる症状であり、それは単なる発熱と本質は変わらない。だから自分=アトピーなんて捉えなくていいのだ。

過去20年、いろんなタイプのアトピーの人から相談を受けてきた。

そんな中、長年アトピーから抜け出せないままの人の特徴のひとつとして、「考え過ぎ」「悩み過ぎ」は間違いなくある。

一方、

「アカンアカン!」

「こんなことばかり考えてたら変になる!」

こんな風に、自ら気付ける人には救いがある。
要するに、どんな厄介事に直面しても、心まで病ませることはないのだ。

「人生とは本当に美しいものだと思います。」と断言したのは、盲目で聾唖者だったヘレンケラー。

一見、アトピーとは何の関係もない話のように感じるかもしれないが、このようなことは本当に大事で、人生そのものを有意義にする秘訣のように感じる。


克服奮闘記3

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近所の風景


やりたいことがある。

それは、日本一周ひとり釣り旅。
それは「今すぐ!」と言う訳ではないが、必ず実現させるつもりでいる。
スタイルは、今流行りの車中泊をメインとしたものになるだろう。

私自身、「釣り」そのものに対して特別な思い入れがある訳ではなく、それこそ行かない時は全然行かない。ただひとつ言えることがあって、それは私の人生にもし「釣り」が無ければ、今、こんな風にアトピーを乗切ることが出来なかった。と言うことだ。

もちろん、釣りに行くことで直接アトピーが治った訳ではない。

そうではなくて、私にとっての「釣り」はある意味、避難場所と言うか、精神的にも肉体的にも行き場を失った自身を守ってくれるシェルターの如く、それは家族とか友人達とはまた別の意味での「救い」であった。

真っ赤な顔をして、恥ずかしくて、悔しくて、情けない。

そんな屈辱的な日々を何とか生きてこれたのは、釣りをしている間の時間だけがその屈辱的な時間の全て帳消しにしてくれる程ではないにせよ、少なくとも埋め合わせてくれる程度に作用していたことは間違いない。

その後、案の定と言うか、アトピーが完治してから釣りに行く回数は減った。

もう少し正確に言う.と、自分が生きている中で比較的順調な時には釣りに行かず、何らかの迷いやトラブルを抱えた時ほど釣りに行く。このパターンが続いた。

さて、

では何故、釣りに行くことで私は救われたのか?

正直、この件に関して当時はあまりよく分かっていなかったのだが、今ならそれがハッキリと分かる。そして応用することもできる。

それは大自然の中でのんびり時間を過ごしたことが影響したとか、確かに、そういう一面はあるだろう。しかし本当の所はこうだ。

私は中学生の頃からそうなのだが、釣りに行く時だけは真剣に事前に準備をして、釣り場に到着したら「魚を釣る」ことだけに全神経を集中する。それは普段、勉強に対する私の姿ではなく、またその後の仕事に向き合う私の姿とも違う。

とにかく釣り場に到着するや否や、冷静に淡々と作業を進める。
ロッドにリールを固定して仕掛けにエサを付けて投入するまで、ラインのトラブルを起こさないよう、細心の注意を払って淡々と作業を進める。

勿論、それ以外の情報、例えば潮の満潮&干潮等は調査済み。

このようにひとつひとつ自分の動作(所作)に注意を払っていると、不思議と心が安定してくる。で、心が安定すると言うことは、同時に自身を客観的に観察できている証拠でもあるのだが、当時はまだそのことの意味、重要性には気付いていなかった。

冷静でいること。醒めた(冷めたではなく)心で自身を客観視できること。

医療機関だとこのような話は一蹴されるかもしれないが、アトピーのような慢性病と闘う場合、私はこのような精神上の経験はかなり有効だと思っている。

アトピーを治す際、「医者任せにせず真剣にアトピーと向き合いなさい」等と言われることがある。しかし真剣に治したいなら、向き合う相手は「アトピーではなく自分自身」だと私なら思う。

真剣に自分自身と向き合っていれば、当然、人のアラを探している時間はない。

ここが本当に言葉や文字では伝わりにくく、また誤解を招く箇所なのだが、自分自身と向き合うと言うのは、本当に今、自分のやっていることに気付いている言う意味だ。

針にエサを付けているなら、それ以外のことを考えず、それに集中。
お茶碗を洗っている時も同じ。クルマを運転している時も同じ。

一見、アトピーとは何の関係も無いように聞こえるかもしれないが、こーゆうところが実は盲点なのだ。事実、アトピーの情報だとデドックスとか最近ならファスティングの話が多いが、それはそれで正しい一方、こういうものが基本にないと心が追い付かず挫折する。(事実、私はそうだった)

日本一周ひとり釣り旅。

今度はアトピーを治すのではなく、もっといろんなことに気付けますように。

克服奮闘記2

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手軽&便利&美味しい!


本日、散髪した。

散髪はいつもなら散髪屋さんへ行くのだが、今回は奥さんにやってもらった。
新型コロナウイルスの影響で、いつも通っている散髪屋さんが営業自粛したからだ。「この時期に?」との思いはあったが、他の散髪屋さんに行くのも面倒なので、今回は奥さんに任せることにした。

ちなみに、奥さんはカットに関しては全くの素人。
ユーチューブ動画を参考に試行錯誤しながら、それでも何とか形になった。
道具は愛犬用のカットハサミ&バリカンだが、そこは気持ち的にスルー。

妻にカットして貰っていると、ふとアトピーだった頃のことを思い出した。

それは私のアトピーが顔に出始めた20代後半の頃、バブル経済が弾ける直前の話で、まだステロイドに対するバッシングは始まっていなかった。

当時、アトピー性皮膚炎は社会的にも認知されつつあったのだが、それでもまだまだアトピーのことを知らない人はいて、私は敢えてアトピーことは知らなさそうな個人経営の理髪店に通っていた。

理由は簡単で、散髪中、アトピーの話題が出るのが嫌だったからだ。

当時、私は自分がアトピーであることを認めたくないと言うか、もう自分の前でアトピーに関する話すら出るのが嫌だったのだ。

だからアトピーのことなど知らず、普通に髪を切って普通に顔を剃ってくれる個人経営の静かな理髪店に通っていたのだが、あの出来事はここで起きた。

それは、散髪が終わってシャンプーから顔剃りに移行した時だった。
散髪中、なんとなく「やばい・・・」と言う感じはあった。しかし、そのことに気付いた時は、もう既にタイミングを逸してしまった後だった。

「エラいこっちゃ!」
「顔から粉が噴き出とる!」

「オヤジ、声がでかい・・・」と思ったが、既に万事休す。
アトピーのことなど知らないオヤジが、ここでは完全に裏目に出た。それに普段なら人の少ない理髪店だが、この時に限って小学生が数人順番待ちをしていた。

その小学生達は直ぐに近寄ってきた。

「わーっ!顔、真っ赤や!」
「あれーっ!白い粉がどんどん出てくる!」

小学生達は、まるで理科の実験室のカエルを見るような目で私を観察した。
一方、私はと言えば、この時ばかりは何故か妙に心が据わっていた。

その時はもう恥ずかしいとか、情けないとか、悔しいとか、そんな感情ではなく、自分を観察するような目で見ていた小学生達の姿を、逆に冷静に観察していた。何となく、「吹っ切れた」瞬間だったかもしれない。


時代は変わった。

今、アトピー患者を取巻く環境は、私の時代とは大きく異なっている。ある意味、それはいい意味で恵まれた環境のように私には思える。

例えば、私の時代(1970年代~1980年代)では、アトピーに関する情報は圧倒的に不足していた。つまりどうすればアトピーを治せるのか。ここが全く分からなかったのだ。

ところが今は違う。
ネットで検索すれば、「アトピーの治し方」自体は比較的簡単に知ることができる。多くを調べた訳ではないので断定はできないが、総じて情報そのものもは正しいものが多く、私の時代のような極端でバランスを欠いたような「治療法」は少数派になった。

そういう意味からすると、私は正直に「良い時代になった」と思うし、実際、普段の生活でもその恩恵は十二分に活用させて頂いている。

しかしながら、その一方でこんな風にも思うのだ。
それでもアトピーに関する限り、治し方を知る事と実際に治せる人になる事は違う。と。私の知る限り、この事実は厳然としてある。それは素晴らしい参考書を持っていても、目指す大学に合格出来る人と出来ない人がいるようなものだ。

アトピーを治すのに「治し方」、つまり「良い食べ物」とか「良くない食べ物」と言った基本的な知識は確かに大事。で、その類の情報なら、もう既に世の中には一杯出回っているし、その大半はその通りだ。

しかしアトピーを治すのにもっと大切なもの、それは取組み方だと私は思う。

その取り組み方とは、ストイックではないし、プラス思考とも違う。

アトピーを治す大きな要因。それは「冷静さ」。だと私は思う。
もう少し言うと、それは自分を客観的かつ冷静な眼で観察する力。

これが無いと、いくら「食べて良いモノ」と「食べては良くないモノ」を頭の把握していても、実際、食事の時間になると、そんな知識など吹き飛んでしまう。

ある意味、アトピーは喧嘩相手と似ているかもしれない。

喧嘩と言うのは、常に冷静な方が勝つ。ようになっている。
一時の感情に流される者は冷静な者には絶対に勝てないようになっていて、このことは歴史が証明している。

楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。
それは間違いではないし、悪いことでもない。

しかし、見方を変えれば、楽しみがあるから悲しみもある。
つまり、楽しみと悲しみは元々ツインで存在するものなのだろう。

アトピー治療に関する限り、一喜一憂することなく「冷静さ」と共に淡々と対処する。私には、この対峙の仕方が一番のように思える。

この「冷静さ」を失ったまま先に進むとどうなるか?

それは実際に体験しなくても、それを想像できる能力が人間には与えられている。
これは大きな福音なのかもしれない。

今の時代は便利になった。

その典型例がレトルトの玄米粥。こんないいモノ、私がアトピーの時代にはなかった。活用できるものは何でも活用するぞー!

克服奮闘記1

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近所に咲いていたユリ

 

京都のT病院を退院した後、アトピーは順調に治った(完治した)かと言うと、必ずしもそうではなかった。

確かに、症状は日に日に良くなっていった。事実、3月14日に退院後、6月には社員旅行に参加。念願の「半袖のTシャツ」を着て、ハワイのワイキキビーチで泳げるようにまで皮膚は回復していた。

それでも、私はまだ「自分のアトピーが完治した」とは思っていなかった。

T病院での入院中に「こうすればアトピーは治る」と言う確信は得たのだが、それは同時に「それを続けないと逆戻りする」と言う不安との背中合わせでもあったのだ。

現実的な問題として、入院中ならできることでも、退院して社会に復帰すれば難しくなることは多々あって、中でも一番苦戦したのは食事(食生活)だった。

何をどれだけ食べればよいのか?

そういう問題は確かにある。
しかしそれより厄介なのは職場に復帰したその時点から、自分のペースで食事を摂ると言うこと自体がままならない状況だった。

多分、このことは仕事の内容や職種にもよるのだろうが、当時の私は誰か(多くの場合、それは取引先)と食事をすること自体が既に仕事の中に組込まれていて、自分の好きな時間に好きなモノを食べることが許させる環境ではなかったのだ。

それでも、アトピーを治したいなら「こうすれば治る」を続けるしかない。

環境がどうであろうと、治すための選択肢はとにかく「やる」しかないのだ。で、とにかくやっていると、その中で徐々に見えてくるものがあった。

そのひとつが、「完璧でないくてもいい」だ。

必ずしも100点を目指す必要はない。65点で十分。大切なのは続けることなんだ。
とにかくやるしかないからやっていると、そういうことが徐々に分かってくると言うか、身体を通じて勝手に見えてくるようになる。

例えば食事。

何をどれだけ食べればよいのか?最初はこのことに頭を悩ませた。
胃腸に負担を掛けないためには少食にするのがベスト。でも、少食だと体力が持たない?と言うか、その前に仕事でストレスが溜まると、食べることで発散したくなるじゃないか!(入院中とは大違いだ!)

こんな感じで最初は苦戦したのだが、それでもめげずに続けていると、まず、こんな風に思うようになった。

ゆっくり、良く噛んで食べるとどうなる?

これは意外と効果的だった。何が効果的かと言うと、食べている自分を客観的に観察できるようになったこと。つまり食べ方そのものが変わったのだ。

例えば、回転ずし。

今、食べているネタを賞味せず、次に食べるネタを物色。で、結局、ひとつひとつのネタをじっくり味わうことなく大食。そんな食べ方をしている自分に気付いた。

で、ゆっくり自分が今食べているモノを味わって食べるようになると、自ずと歯止めが効くようにもなった。

食べ方だけではない。
食べ物の種類にしてもそうだ。

健康を維持するための腹八分目なら、食べるものそのものが重要になる。で、私の経験上、それは命、つまり生命を頂くことなのだ。

生命力のあるモノ。これが食材。工場で生産されたものより、海や山で採れる新鮮な生命。これを摂取する。だからと言って、活きたタコの刺身を食べ過ぎたり生卵を飲むような食べ方はやり過ぎだ。逆に痒みを誘発してしまうので注意が必要。

生命力が強すぎる、いわゆる「精(力)」の強いものは要注意で、そういうものは火を通してじっくり調理するのが賢明。「白米より玄米の方が生命力は上」と思って、好きでもない玄米を無理に食べる必要もない。

要は基本的なことさえ押さえておけば、後は65点主義でよいのだ。

 

アレルギー検査に思うこと

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雨の生駒山

さて、今回はアレルギー検査の話をします。

アトピーの人なら、一度は受けたことがありますよね?
ま、アレルギー検査と一口に言っても、結構種類があって、費用もまちまちですが、典型的なものと言えば、血液検査によるアレルゲン検査でしょう。

このアレルゲン検査。

私の場合、通算で70回以上受けたと思います。で、常に数値の高かったのはハウスダストとヤケヒョウダニ。この二つでした。

で、この結果を知らせる度に、妻の顔が険しくなるのでした。

「私が、全然掃除をしていないみたい・・・」
「一生懸命やっているのになあ・・・」

この際、ハッキリ言っておきますが、いわゆる「吸入系アレルゲン」と呼ばれるアレルゲン、例えば上記2種以外にもスギ、ヒノキ、カモガヤ、ブタクサ等の数値が高くても、そのことで「部屋が掃除できていないから・・・」とか、とにかく誰か(自分も含めて)を責める必要はない。と私は思います。

逆の言い方をすると、いくら必死で家じゅうの部屋を掃除しても、それだけでアトピーが治る(完治)なんてことはない。そういうことです。

実際、私自身やってみて、いくら小まめに部屋の掃除をしても、ハウスダストやダニの数値なんて、そうそう簡単には低下しませんでしたから。

ましてやスギやヒノキ等の花粉系になると、もうお手上げですね。

そもそも対策の打ちようがない。
周囲のスギやヒノキを全て伐採するのは不可能です。

なので、こういうひとつひとつの検査結果に対しては「そうなのね~」くらいで、軽く受け止めておく程度でよいと思います。受け流す必要は無いですが、真剣になる必要もない。要するに目安程度で十分。

何故そんなことが言えるのか?

それは「治す」と言う視点で見た場合、大切なのはそこじゃないから。

簡単に言うとですね、アトピーを治すと言うのは周囲の環境を変えることではなくて、自分自身がアトピーではない自分になることなので、この文脈からすれば、当然、努力する方向性も外部的なものではなく内側の自分に向かう訳です。

分かり易く言うと、アレルギー検査の結果より便通、つまり自分のウンコの状態。こっちなんですね。大切なのは。で、大便とは文字通り「大きな便り」、小便とは「小さな便り」のことで、これをしっかり注視することの方がアトピー、いやアトピーだけでなく健康のバロメーターとしても役立つように思います。

因みに、このことは書籍から学んだのではなく、自分自身の経験から得た知恵なので、いくらでも応用が効きます。

とは言え、アレルギー検査が全く無意味なのかと言うと、そんなことは全くなくて、私自身、目安にしている検査項目もあります。

それは、血液検査の中の「好酸球値」。

一般的に健康な人であれば、好酸球が白血球の中に占める割合は5%程度と言われていて、少しくらい数値が高いくらいであれば特に問題はないのですが、私の場合、アトピーが酷い時には正常値の4~5倍程度に上昇していました。

この好酸球値は必ずしもアトピーの状態をリアルタイムで示している訳ではないので、一喜一憂するようなものではないのですが、私は症状が良くなってからも、この好酸球の値だけは参考にしていました。

そんな訳で、アトピーを治す上で私がひときわ重要視しているのは大便、つまりウンコの状態で、コレは単に出るとか出ないとか、その程度の話ではなく、色、形状、臭い等の詳細を観察するくらいの慎重さが必要なように思います。

と言うか、実際に出たウンコをザーッと流さないでじっくり観察してみると、そこにはいろんな情報が詰まっています。「へー!」って思われるかもしれませんが、それは何も食べたものの結果だけではなく、その便が出るに至った原因として精神状況まで知るヒントが満載されていたりします。(これは分かるまでちょっと時間&経験が要る)

ウンコは正直です。

自分の体が不健康なのに、健康的なウンコは出ない。
逆も同じ。自分が健康なら、健康的なウンコしか出ない。

もし、アトピーを治すためにあーだこーだと悩んでいるなら、健康的なウンコが出るように頑張ってみるのがお勧めですよ。

何を食べればよいのか?
何を食べない方がよいのか?
一日何回食べればよいのか?
また、どの程度の量を食べればよいのか?

それは全部、ウンコが教えてくれる。

それは誰かに教えて貰った間接的な情報ではなく、自分自身の経験から得た知恵。
自転車に乗れるようになるのと同じ。足の力の入れ方、ハンドル操作、それらは全部自分の体で会得したもの。

検査結果は参考程度でいいよ~。それより自分を信じよう。

 

 

入院していた頃の出来事

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田植え

最近、すこぶる体調がいい。

私の場合、毎年この時期になると体が重く、頭の芯のスッキリしない日が多いのだが、今年は新型コロナの影響で普段より気を付けていたせいか、すこぶる調子がいい。

「気を付けていた」と言っても、特別なことはしていない。

「お腹減った!」と感じたなら食べる。
「お腹減った!」と感じてないなら食べない。

昼食の時間でも、お腹が減っていないなら、他のことをして時間を過ごす。すると大抵、夕食前には「お腹減った!」となる。そして夕食はゆっくりよく噛んで食べる。

これを続けていると、ホントに体調がよい。

最初に私がこのことに気付いたのは、アトピーが悪化して入院している時だった。
当時の私はステロイド離脱によるリバウンドからアトピーが劇的に悪化。殆ど身動きが取れない状況のまま、京都のT病院に入院したのだった。

この病院で私は「絶食療法」なるものを経験することになるのだが、とにかく今、自分が健康でいられるのも、この病院での体験が大きく影響しているように思う。

その「絶食療法」を簡単に説明すると、最初の2日間で食事の量を減らして、後の3日間は「すまし汁」だけ。そして、後の2日間でゆっくり普通の食事の戻す。と言うもので、当時はこれをワンクールと呼んでいた。

私は、この「絶食療法」を入院中のひと月で3クールやったので、殆ど「絶食療法」をするために入院していたのようなものなのだが、この入院期間中に、私の今まで経験したアトピー治療の常識はぶっ飛んだ。

それは、これまでの治療では考えられないような変化が連続して起きたからだ。

結論から言うと、この入院期間中に私のアトピーはそれはそれは劇的に好転した。
勿論、それが「完治」でないことはそれまでの経験値から分かってはいたけれど、それでも、この時の経験は「治せる!」と言う確信を得るには十分な体験となった。

当時の面白い話をしよう。

あれは確か2クール目が終わって、回復食の時だった。
昼食の3分粥を食べた後だったと思う。ベッドで横になっていると、突然、お腹が物凄い勢いでゴロゴロと動き出した。

「なんだ!」「なんだ?」

そう思って観察していると、次はいきなりブォーと言う爆音と一緒に大量のガスが噴出。その時間がまた長い。続く続く。「いや、もーええやん」って感じ。これだけの長い時間、大量のガスが出たのは生まれて初めての経験だった。

で、やっと止まったと思ったら、再びゴロゴロのお腹が動き出す。「少し治まったかな?」と思って、寝返りを打つと、またゴロゴロ・・・。この繰り返しが延々、1時間くらい続いた。

「看護婦さん入ってきたらどうしょう・・・」

当時、私はまだ30歳。多少なりとも、それなりの「恥じらい」はあった。で、それまで個室しかないことにブー垂れていた私、この時ばかりは「個室で良かった!」と心変わり。

さて、1時間後、私のお腹はペッタンコになった。
いや、ペッタンコと言うよりも、凹(くぼんだ)といった感じになった。

と、同時に、この日を境に私のアトピーに大きな変化が生じた。

炎症が消え始めたのだ。それまで18年間、何をやってもダメだった皮膚の炎症が、しっかり目視できる程、1日単位で消えているのだ。

こうなると、夜、シャワーを浴びる時間が待ち遠しくなった。

普通、入浴後の数時間と言うのは、症状がピークを迎えることが多い。体内の血流が促進されることで、発作的な激しい痒みを誘発するからだ。

ところが、お腹がへこんで胃腸の働きが活発化して以後、皮膚の炎症(赤み)は日に日に消えた。

それだけではない。

頭の中がスッキリして鼻が通り、鼻炎が治ってしまっただけでなく、それまで私を悩ませていた結膜炎まで消えた。(因みに、私の場合、喘息は元々ない)

この時の驚きは、今も鮮明に憶えている。

しかし今思うのは、それは決して不思議でも奇妙でもないと言うこと。
それは毎朝、いつもの〇時△分の電車に乗れば、目的地である会社や学校には〇時△分には到着するくらい、普通の事なのだ。

説教じみたことを言うつもりはないのだが、今はグルメとかなんとか言って、TVを観れば食べるシーンばかりが当たり前のように映し出される時代だが、実はそうでない国の人達も沢山いて、私達の食生活パターンの方がむしろ少数派なのかもしれない。と言うことが今回のコロナ禍を通じて再認識させられた気がする。

私自身、決して食べることが嫌いではないし、気の合う仲間同士でワイワイ飲み食いするのは大好きな方なのだが、ホドホドと言うか、やはり自分の健康は自分で守るほかないだろう。