飛鳥旬のブログ

自分のアトピーは自分で治そう!

アトピーを治してみて分かったこと1

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58回目の誕生日。清々しい朝、妻と愛犬で近くの公園を散歩。爽やかなそよ風が肌に心地よい。自生したユリの花が一本、ポツンと咲いていた。ユリは何も主張しないし、何かの功績を残そうともしない。ただそこに咲いているだけ。なのに不思議と存在感を感じる。まるで「生きているだけでいいよ」と語りかけられているようだ。

 

アトピーであること、アトピーを治すこと

アトピーを治してみて初めてわかったことはかなり多い。その反面、アトピーの最中に得たものは殆どない。私の場合、アトピーであること自体は「苦痛」以外の何物でもなかった。得るものなんて何もなくて、思い知ったのは治りたい気持ちの激しさ、一途さだけだった。もっと言うなら、必死になって治そうとしている時間でさえ、私にとっては苦痛だった。裏付けのない希望。根拠のない期待。

「今はアトピーに感謝しています。」
アトピーの克服体験談にこんなコメントがあった。「自分とは違う」と思ってしまう。年を重ねることで「そんな風になるのかな?」と思ってもみたが、年を重ねた今でも、相変わらず「自分とは違う」ままだ。今も、私はアトピーには感謝なんてしていないし、誤解を恐れずに言うと「今はアトピーに感謝しています」と言うコメントは治してこそのものだと思う。アトピーのまま、治った事実が無いままでは感謝の念は生まれない気がする。だから「アトピーは治してナンボ」と私は思うのだ。

逆に、アトピーを治してみて分かったことなら一杯ある。それは身体だけでなく精神面も含めて、一杯ある。で、それらの「分かったこと」は、今も日々生きて行く中で役に立つ。例えば「怒り」。怒りの感情が体に与える影響は絶大。これはアトピーを治して分かったことのひとつだが、イライラして内に怒りを秘めた日々が続くと、心身に異常が出ない方が不思議。と今なら分かる。ので、怒り、恨み、憎みの感情には注意する。

アトピーを治してみて分かったことの一番は、なんと言っても全ては「自分」だと言うこと。レジの行列でもたつく先客、電車の中の酔っ払い、信号が青になっても発進しないクルマ等、イライラする種を言い出せばキリがない。多分、悪いのは相手だろう。自分ではない。いや100%自分以外の人やモノが悪いケースの方が多いかもしれない。で、このようなイライラの種は今までがそうであったように、これからの人生でも起こり続けるだろう。ストリーやシチュエーションは変わっても。

でも、こんなイライラの種に対して「自分」は過敏に反応したくはないと思う。イエス・キリストのように「敵に打たれたら、反対の頬を差し出せ」とはいかないまでも、「そこは黙ってスルー」くらいならできそうだ。黙ってスルーできないこともあるだろうが、少なくてもレジに並ぶ先客や電車の中の酔っ払い、信号が青になっても発進しないクルマの運転手程度なら何とかなりそうだ。

自殺者3万人。うつ病患者100万人。引きこもり60万人。これらの背後にあるものは一体何だろう?先の参議院選挙で候補者が「現状打破!この社会を変えましょう!と連呼していた。

「正社員ではない自分には価値がない」「結婚できな自分には価値がない」「仕事で功績のない自分には価値がない」。そんなものは本来、人間の価値とは関係のないものの筈だ。実際、幼馴染みとか同級生に対して、そんな視点で付き合っている人は少数派だろう。ところがもう少し大きな枠、つまり「社会」と呼ばれるカテゴリーでは自分には「価値」が必要で、そのためには特別な何かをしなければならないと言う一種、脅迫めいた感覚に陥ることがある。こうなると「生きる」ことの意味がグチャグチャになる。と言うのが私の経験則。

私は思う。「ユリの花と人間はそもそも違う」と言うのは少し偏狭な視点で、エネルギーある生命体と言う見方をすれば、ユリの花も人間も共通点はある。ただユリの花は自分に対して付加価値を求めることはしない。それは「ただそこに咲いているだけで十分なのよ。」と語りかけているようにも思える。

 

飛鳥流 アトピーのかゆみ対策

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     伊豆半島城ヶ崎海岸より 前方にうっすら見えるのは伊豆大島? 

 

暑い!と言うより熱い!ならば熱い海。熱海へ!と言う訳で、夏休みを利用してブログ読者のM君と伊豆の熱海へ行くことに。新幹線の熱海駅で集合する予定が、駅周辺は大渋滞。急遽、海辺のデニーズで合流。大型台風接近との情報から、「このタイミングで海へ行く人は少ない」と言う私達の予想は見事に外れた。

浜辺は、海水浴を楽しむ人、人、人で埋め尽くされていた。台風が接近しているせいか、波は穏やかではなかった。が、返ってそれが子供達には楽しそうで、一心不乱に波と戯れる光景を見ていると、自然と自分までウキウキしてきた。で、ふと思った。「あっちこっち行かんでも、もうココで十分えーやん・・」

気持ちを切り替えて伊豆半島南端、宿泊地である下田を目指す。車の窓から景色を眺めていると、さっきの気持ちはどこへやら。岸壁に打ち寄せる白波を見ては、「やっぱり移動して良かった!」などと思う。私はすっかり伊豆半島の自然に魅了されていた。

20代の頃、私は外泊が好きではなかった。と言うか怖かった。その理由は「痒くて眠れない」から。当時はどこへゆくにもステロイドを持参。ステロイドが無ければ私の日常は成り立たなくなっていたのだが、夏はステロイドを塗っても眠れない。そんな日が続いていた。疲れているのに眠れないのは拷問に近い感覚だった。

この時期、「飛鳥さん、痒い時はどうすればよいのですか?」と言う質問を頂く機会が多い。そこで今回は、私流の痒み対策を紹介しようと思います。

まず最初に言っておきたいこと。それはアトピーの痒みと言うのは「痒い!」と感じてからでは、もう打つ手が無いということです。全く選択肢がない訳ではないのですが、それでも実際は「冷やす」くらいしか手段がありません。なのでアトピーの痒み対策とは「痒い!」と感じてからするものではなく、それ以前のものいうことになります。

まず、痒みそのものをじっくり観察してみて下さい。するとアトピーの痒みが必ずしもワンパターンではないことに気付きます。ね?激しさはないもののダラダラと続く慢性的な痒み。短時間だけど気が狂いそうになるほど発作的な強い痒み。少なくとも、この二つは観察できる筈?で、今回紹介するのは夕刻から明け方まで続く「快眠妨害型」の痒み対策です。

一般的にアトピーの痒みと言うのは、副交感神経が優位になる夕方から始まるケースが多いです。脱ステ後のリバウンド状態は別として、起床直後に我慢できないほどの発作的な痒みに襲われた経験ってありますか?多分、無いと思います。このような激しい痒みの多くは夕刻からやってくるからです。逆の見方をすると、交感神経が優位な夕刻までの時間帯では、痒みは比較的鎮静化しています。この現実から、私の直接体験を紹介します。

夜、「快眠」を得ようと思うなら、可能な限り食事は午前に集中させる方がいいです。正直、理由は分かりませんが、副交感神経が優位なリラックスタイムより、交感神経が優位な戦闘モード?に飲食を集中させた方が、夜の痒みは確実に軽減されます。自分が思うに、これは血液の流れ、つまり血流に関連している気がします。健康なら血流なんてほぼ無視。でもアトピーの時はこれが刺激となって痒みを誘発している。

一方、痒み自体もひとつの治癒反応である故、逆に血流を促す治療法もあるようですが、私はいくら血流が良くなっても、夜、眠れなければ意味が無いと思っているので、熟睡できることを最優先させます。それに、皮膚は眠っている間が一番再生されます。実際、私は日々、食事の内容で随分、血流が違うことを実感しています。例えば今夜の夕食を、ごはん、冷や奴、奈良漬けにした場合と、ごはん、麻婆豆腐、キムチとした場合を比べてみると分かりやすいかもしれません。量の問題はあっても、まず後者の方が痒くて眠れない可能性大です。

もう少し分かりやすい例を挙げると、夏の時期、バーベキューで焼き肉を腹一杯食べた時と、軽く素麺だけで済ませた時の違い。よく体感できると思います。但し、今回のような痒み対策をブログでお伝えするには難しい部分もあって、それは食べる量や香辛料の量などによっても微妙に変わってくることは付け加えておきます。

ひと昔前、アトピー本の中の食事のページには、食べて良いもの・悪いものみたいな括りで食品が紹介されていましたが、例えば先ほどの豆腐のように、それをそのまま冷や奴で食べるか、それとも唐辛子を入れた麻婆豆腐で食べるのかで、アトピーの痒みに与える影響は全く違ってくる気がします。かってエスキモーの人達がアザラシの肉を生で食べたのは、それが一番血流を促して体を温めておく食べ方だったからでしょう。

逆にアトピー時の痒み対策は、できるだけ就寝前に飲食で血流を上げないことだと思います。東南アジアの僧侶の食事は午前中のみ、午後は基本的に飲食を控えるそうです。で、すこぶる体調が良いのだと。このことは自分にも経験的にわかる気がします。できるかどうかは別として、アトピーの痒み対策のヒントになるように思えます。

今回は痒み対策の話でしたが、最初に対策は「痒み」を感じてからやるものではないと言いました。このことはアトピーを治す場合の全てに通じることで、この夏にやるべきことをやることで今年の冬はもっと症状は改善されている筈で、根治療法とはそのようなものです。

先日、たまたアトピーの新薬「デュピルマブ」による治療体験談をネットで見ました。そこには治療開始から本日に至るまでの経過が赤裸々に綴られていたのですが、それを見て私は何ともやるせない気持ちになりました。理由は単純です。全然良くなっていないからです。治療開始から既に1年以上が経過しています。これだけの時間、もし根治療法を地道に続けていれば・・・と思ってしまいました。私は、アトピーと言う病気は計画的に治せるものだと信じているからです。

アトピーを治すのに特別なことは何も必要ない。

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                                                         岩清水

 

久しぶりに家族で旅行した。本州最南端の潮岬から串本町&古座川周辺をドライブ。で、今回のような一泊旅行をすると、普段の生活の中ではもう思い出すことも無くなったアトピー時代の記憶がふと蘇ることがある。それはもう自分の中では消えてしまっている筈の記憶だが、例えば岩肌を伝って流れ落ちる石清水を見た瞬間、なぜか箱根周辺を家族で旅行した時の記憶が鮮明に呼び起された。

 

当時、私は28歳。アトピーが顔に出て間もない頃だった。あの頃の私は、顔にアトピーが出たことがショックで、何をしていても、どこへ行っても、自分の顔のことばかり気にしていた。私の場合は特に左半分の炎症が酷く、平手で叩かれた後のようにいつも赤く腫れ上がっていた。だから人と話す時は、常に顔の左側が相手に見えないようにしていた。(この癖はアトピーが治った後もしばらく抜けきらなかった。)

 

四六時中自分の自分の顔ばかり気にしていると、何をしても、どこへ行っても『心ここに非ず』の状態になる。で、この『心ここに非ず』の状態では、どこへ行っても目に入る景色や光景は見ていないのと同じことになる。事実、当時の私には海からの潮風を感じることも無く、清流や岩肌を伝う石清水の美しさも感じることはできなかった。

 

『雫の滝』から吹く風は優しかった。石清水から滴る水も優しかった。それを理屈で言えば「マイナスイオンの影響」なのかもしれないが、そんなことより、私はただただ「優しさ」に身を委ねていることが心地よかった。「自分は癒されている・・・」と思った。

 

アトピーだった当時、私はいつも「癒し」を求めていたように思う。で、その「癒し」とは人からの愛情とか優しい言葉と言った類のものだけでなく、とにかく自分が「心地よさ」を得ることができる全部だったのだろう。どうすれば癒されるのか?その答えは実は難しいものではない。対象は何でもよい。例えば通勤中、道端にそっと咲いている花を見た時、その花に笑顔を返せるだけでも少しだけ一体感を得ることができる。少なくともそれは『心ここに非ず』ではない。「一体感」は癒しの原点かもしれない。

 

今、対象は何でもよい。と言ったが、対象はやはり自然や生き物が良いと思う。包丁やナイフを見て微笑みを返すことは難しいだろうし、ポリ袋やごみ箱を見て微笑みを返せるほど修業は積んでいないから。

自然さと不自然さ

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              順調に育つ田んぼの稲

 

 

最近はテレビを観ることが少なくなった。以前はお笑い番組をよく観ていたが、最近はほとんど観なくなった。で、なぜお笑い番組を見なくなったのかと言うと、それは単純に「面白くない」と言う理由以前に、「不自然さ」を感じているからかもしれない。

 

「笑い」を取るためのネタを真剣に考えている芸人さんには申し訳ないのだが、ひょっとすると、そのネタを考えると言う行為が、私に不自然さを感じさせるのもしれない。「笑い」を取る。「笑い」を取った者勝ちみたいな「お笑い至上主義」的雰囲気を醸し出している番組には何か不自然さを感じる。

 

一方、出川哲郎の「充電させてもらえませんか?」はよく観る。なぜこの番組を観てしまうのか、それは多分、出川さんと言う芸人が「自然」に面白いからだろう。先日も『日帰り入浴』のことを『日帰り入力』と言っていた。多分、本人は気付いていないが、そのことが返って笑える。『エメラルドグリーン』の湖を観て、『コバルトブルー』と間違える。『マーメイド』を『マーマレード』と間違える。自然に笑える。

 

話は変わるが、「自然さ」と言うのはアトピーを治す場合の重要な要因である気がする。逆の見方をすれば、「なんかちょっと不自然な気がする・・・」と感じることはしない方がいい。誤解を恐れずに言うと、巷に溢れているアトピーの情報等、私の眼から見れば不自然なものばかりだ。日々の生活を過ごす中で同時にアトピーを治すなら、最低限必要なのはローションとクリーム程度だし、それ以外は無くても何とでもなる。

 

それ以外は何とでもなる話には前提があって、それが「自然さ」と言うことだ。結論から言おう。毎日の食生活で何を食べて何を食べないかなんて考えることを止めて、「お腹が減ったら食べる」「お腹が減っていないなら食べない」ということに徹すると、アトピーは劇的に良くなる。それでもお腹が減った時に何を食べれば良いのか?どうしても気になるなら、その答えはズバリ「ご飯」。つまりお米だ。

 

「自然」と言うのは見方を変えれば、これがこうなっているのは、あれがそうだから。みたいなもので、全てが繋がっている。40度近い高熱で寝込んでいる時、(私の場合は肺炎になった時)、私はステーキはおろか、大好きなラーメンでさえ食べたいとは思わなかった。と言うか、何も食べたくなかった。これが自然の摂理。で、その時、つまり肺炎で入院中、私のアトピーは消えていた。高熱とアトピーは共存できないからだ。(これがこうなのは、あれがそうだから・・・)

 

お腹が減ったら食べる。お腹が減っていないなら食べない。
これこそ自然の摂理と言うものだ。だからアトピーが治るのも自然。アトピーだけではない。たったこれだけのことでほぼ健康を維持できる。と言うのが私の直接経験。ところが、今の時代、これを継続することは難しい。お腹が減っていないから食べないだけなのに、会社で昼食を取らないと「具合でも悪いの?」となる。そんな時、私なら無理をしない。コンビニでおにぎりを一つ買って食べる。こんなことでストレスを感じる方が「不自然」と思えばいいのだ。

 

「自然さ」を基準にするなら、食事の内容も変わるかもしれない。
これからどんどん暑くなると、当然、食べ物は腐る。腐るのが自然で腐らないのは不自然だと分かれば、選択肢は「新鮮なもの」か「最初から腐っているもの」が賢明になる筈だ。新鮮なものの代表は鮮度の高い野菜や魚だろうし、最初から腐っているものと言えば発酵食品、つまり味噌汁やお漬物、納豆の類になる。

 

「お腹減った!」と感じた時にはご飯とみそ汁。これをベースに食事を組み立てると、大きな間違いはない。と言うのが私の直接経験。ちなみに直接経験が一番使えるのは、誰もが経験していると思うが、私には、頭であれこれ考えて導き出した思考の産物ではアトピーが治る気がしない。

 

今、アトピーであるが故にいろいろ悩んで、考えて、頭の中がもうグチャグチャになっているなら、無理にでも思考を停止させる、と言うのは使える(これも直接経験)。これは私がアトピーで緊急入院した時にやった方法で、これで気持ちがラクになった。で、思考を停止させてどうするのかと言えば、自分が呼吸そのものになったように(心臓の鼓動でもいい)、ただひたすら感じているだけ。で、とにかく考えないようにすることで、妄想や幻想と一定の距離を保つことができる。正直、アトピーであるがゆえにあれこれ悩んでいる(思考している)くらいなら、お笑い番組を観ている方がいいかもしれない。

アトピーを治すということ

 

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本日は雨。近くの田んぼでは苗が少し大きくなりました。

 
アトピーの新薬、デュピルマブ(商品名デュピクセント)が販売されて約1年半が経過した。新薬の発売は10年ぶりだ。今までアトピーの治療と言えば、塗り薬(外用薬)が主役だったが、これでは改善しない大人の中程度から重度の治療薬として、今回の新薬(デュピルマブ)が開発されたようだ。

 

で、今までのステロイドやプロトピックとの大きな違いは、何と言ってもこれが注射薬と言う点だろう。詳しくは知らないが、恐らく今回の新薬にも期待できる点は多々あるのだろう。自己負担が年額60万円と言うのはさておき、治療の選択肢が増えることそのものは患者にとってはありがたい話だ思う。

 

ところで今回、この新薬を知った時、私は10年前にプロトピックが発売された時のことを思い出した。当時(今でもそうだが・・)ステロイドを顔に塗ることに対して拒絶感の強い患者がいる中、プロトピックにはステロイド特有の「赤ら顔」や「皮膚萎縮」の心配が無いことから、画期的な塗り薬との前評判だった。

 

だが、それでも・・・と、私は思うのだ。何故なら新薬の登場と「アトピーを治すということ」とは別物だから。難しい話ではない。今更ではあるが、ステロイドやプロトピックそのものが直接アトピーを治す訳ではないと言う事実を直視すれば、当然、それは今回の新薬も同じなのだ。

 

アトピーを治す上で大切なのは、薬で症状を改善させている間に患者自身がいかに根本的な治療に取組むか。全てはココにかかっている。逆にこの部分がそのままなら、一時的に良くなった症状は時間の経過とともに必ず元に戻る。アトピーが治る理由がどこにも無ければ、物事が元の鞘に収まるのは自然の摂理と言うものだ。

 

それは、田んぼの苗を見ていてもよくわかる。
田植えを終えた苗はすくすくと育ち、多分、10月には新米となって収穫される。その間、稲は追肥、除草、水抜きと言った一連の作業を経て成長するのだ。だから私達はこの稲が秋には収穫の時期を迎えることを知っている。もうひとつの例えを出そう。明日、私は仕事に出るのだが、何時の電車に乗れば目的地には大よそ何時に到着するかを知っている。で、よほどの天変地異でもない限り、この予定が狂うことは無い。つまり想定の範囲内で物事は進行する。

 

私が思うに、アトピーの治療も同じだ。治療とは「このようにすれば大体この程度の時間で治癒します」と言うことが予め分かっている道を歩くことだ。なので、アトピーを治すにはアトピーを治すための実る努力(結果の出る努力)を継続する。これに尽きる。その第一歩が「胃腸の健全化」で、平たく言うと、お腹の調子が悪いままアトピーを治そうとしても、それはチェーンの外れた自転車の如く、いくら頑張っても前進しない。これはもう新薬がどうのこうの言う以前の問題で、さっきの例で言えば、苗を植えようとしても、地面が硬くて植えられない状態に似ているかもしれない。

 

世の中には様々な人がいて、いろんな仕事をしていて、混沌とした世界のように映る。しかし私達人間を冷静に観察すると、誰でも共通していることがある。それは入れる(食べる)、出す(排泄)、眠る(睡眠)の3つで、これだけは政治家だろうが、女優だろうが、一般サラリーマンだろうが、主婦だろうが変わらない。普段、複雑に思われる私達の生命活動も、突き詰めてみれば全てはこの3つに集約されてしまう。

 

そして私達の身体が不調を訴える場合、よくよく観察するとこの3つの内のどれかに問題がある場合が圧倒的に多い。アトピー然り。だから普段から「快食」「快便」「快眠」を意識すれば、身体の異常が自ずと分かることも多い。と言うか、新薬を試すなら、それと並行して「快食」「快便」「快眠」を意識した生活習慣を続けないと勿体ない気がする。 

 

心と体

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近くの田んぼ

 

1991年2月14日。小雪が舞い散る聖バレンタインデーの午前、私は京都にあるT病院に入院した。入院以外の選択肢は無かった。仕事はおろか、日々の生活さえロクに過ごせない。今までもアトピーが劇的に悪化したことはあったが、あの時は異次元だった。

 

あの時点で、私のアトピー歴は15年。
さすがに「そろそろ来るな・・・」とか「ちょっとヤバイな・・・」と言う悪化に対する事前通告みたいなものは経験できるようになっていた。しかし、あの時は状況が全く違った。40度近い高熱が一向に下がらず、もう限界だった。

 

後の検査で分かったことだが、案の定、私のアトピー感染症を併発していた。掻き壊した皮膚から黄色ブドウ球菌(と思われる)が感染。それは藁にもすがる思いで信じていた民間療法の『好転反応』とは全く違うものだった。

 

で、結論から言うと、私のアトピーはこの病院での入院治療を経て劇的に良くなった。1か月の入院期間にやったことと言えば、絶食療法を3クール(1クールは7日間)だけ。絶食療法と言うのは3日間の「すまじ汁断食」を行うため、その前後の食事の量をゆっくりと減らし(増やし)する療法で、感覚的にはデドックス(毒出し)に近い。

 

この入院治療を経て、私のアトピーは劇的に良くなった。そしてこの入院治療中に自分なりに計画を立て「アトピー完治への道」を歩むことができるようになった。

 

と、書くと、いかにも絶食療法(デドックス)がアトピーに効くような印象を与えるかも知れないが、実はそうではない。これは現在、入院治療を検討されている方々の参考になればと思って書くのだが、私のアトピーが入院中に良くなった要因は、体を対象にした治療よりも心のケア、つまり精神的に癒された感の方が強い。

 

もう少し書くと、当時の私には全くと言っていいほど「心の余裕」が無く、何をしても、どこへ行っても、いつも何かに急き立てられるような感じだった。当然、『アトピーである』と言う現実はその「心の余裕の無さ」を容赦なく加速させるのだが、この病院での入院中、私は「心の余裕」を取り戻していった。それは今振り返ると、自力と言うより、病院スタッフの方々によるサポートの部分が大きかったと思う。

 

で、「心の余裕」とはどういうものかと言えば、ごく普通に人間的な心と言うか、看護師さんの患者に対する優しい接し方と言ったレベルの話なのだが、実はこの部分が自分に与えた影響が大きかったと思う。

 

話は少し逸れるが、今も医療機関に行くと、そこで働いている人の心情がよくわかる。人は自分の気持ちを隠そうとしても限界がある。自分では上手くやっているつもりでも、周囲は気付いている。それはその人の考えていることが、その人の発する言葉の端々や行動・動作から滲み出てしまうからだろう。

 

誤解されると困るのだが、私は医療機関で働く人達を批判している訳ではない。他人に対する「優しさ&思いやり」の心がアトピーだけでなく、あらゆる疾患を癒す可能性のあることを言いたいのだ。

 

ところで、

 

アトピーになる。或いはアトピーが悪化する。この原因だけを挙げるなら、それほど難しくは無い。環境の変化、食生活の変化、暴飲暴食などなど。でも、その背後には必ずと言っていい程、心の問題がある。多かれ少なかれ、心は身体に影響を与えるからだ。

 

では、自分はどうか?私は今、アトピーではないし、今後もアトピーになる可能性は限りなく低いと思う。では、それ以外の病気に関してどうか?それは正直分からない。
今は健康だが、いつかは病気になるかもしれない。でも、ひとつだけ自負していることがあって、それは「自分は心身症には罹らない」と思うのだ。

 

思うに、うつ病等の心身症を発症する人には共通する点がある。それは簡単に言えば、過去や将来や空想の世界に浸る時間の多いこと。これは言い換えると、今、この瞬間に生きていないことを意味する。これは私自身も経験のあることだが、悩みだすと、問題の本質を見極める方向ではなく、その周囲をグルグル回るだけの時間を過ごしていることが多い。そんな時は要注意だ。

 

そんな時、私は自分に言い聞かせる。「過去にも未来にも空想の世界にも、オレが生きる場所はない。生きることができるのは今だけ」。そう思って、クルマの運転をする時はクルマの運転に、歯を磨く時は歯を磨くことに集中する。すると、あまりへんな方向に行くことなく、真っ当な一日を過ごせることが多い。これは事実だ。

 

好きと嫌い

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東京のメルマガ読者M君と京都の嵐山へ。

あれは小学生の3年頃だったと思う。
缶詰の「アスパラガス」を食べて吐きそうになった。で、「これは食べ物じゃない!」と。同じ頃、初めてチェルシーのヨーグルト味を知って、「こんな美味しいものが世の中にあるのか!」と感動した。その後、私の中でアスパラガスは「嫌い」。チェルシーのヨーグルト味は「好き」なものの典型となった。

 

で、その「好き」と「嫌い」が今もそのまま続いているかと言えば、そうでもない。その後「アスパラガス」は好物となり、チェルシーのヨーグルト味は好きでも嫌いでもない、と言った感じ。

 

ところで、この「好き」と「嫌い」は、人間関係でも同じようだ。
ある女の子に対して、「好き」と思ったのは中学3年の時。一方、30代の頃、職場でどうしても好きになれない、と言うより、正直「嫌い」な後輩に手を焼いていた。この「好き」と「嫌い」の感情は比較的長い期間続いた。

 

で、その「好き」と「嫌い」が今も続いているかと言えば、全然そうではない。
当時「好き」だった彼女とは、今、会おうと思えばいつでも会えるけれど、自分から会いたいとは思わない。一方、当時あれほど手を焼いた後輩が、今では本音トークのできる数少ない後輩となっている。

当然、「好き」なままな人もいれば「嫌い」なまま人もいる。
でも、それは必ずしも「絶対的」なものではない気がする。

 
で、「好き」「嫌い」と言えば、今も思い出すのは30代後半の女性Hさん。
彼女は三重県在住。5年位前にアトピーの相談を受け大阪市内でお会いした。
余談になるが、私がアトピーの相談を受けるのは何故かこの年代の女性が多い。比率で言えば70%位が女性だが、年齢的には30代半ば~40代前半までに何故か集中していて、逆に男性の場合は20代後半から30代半ばに集中する。

で、女性の場合、会話の進行は大抵2パターンに分類される。
ひとつは、いわゆるマシンガントーク。で、もうひとつは、受講生タイプ。
ちなみにHさんは典型的なマシンガンタイプ。このタイプはとにかく「聞く」ことが大事で、これに専念しなくては信頼関係は築けない。

 

私はアトピーの相談を受ける際、何が一番大切かと言えば、それは信頼関係だと思っている。これは理屈ではなく経験則なのだが、たった半日程度の出逢いでも信頼関係が無ければ、双方にとってそれは勿体ない時間になってしまうのだ。

話を戻してHさん。
マシンガントークが始まって間もなく、突然、「私は主人が嫌いです!」とバッサリ。その後も「嫌い」な主人を滅多切り。長女が非行に走った原因他、何より彼女のアトピーが劇的に悪化したのも「嫌い」な主人が原因との分析だった。


結論から言うと、私は主人のことが「好き」でも「嫌い」でも、どっちでも構わないと思う。客観的に観れば、雨を善悪で語れないように、究極的に観ればHさんのご主人も善悪では裁けない(と言うか、他人には分からない話)。でも自分の夫を「嫌い」と感じる心は苦そのものだ。夫のことを「嫌い」と感じたその瞬間、表面上は気付かなくても心の深い部分は苦を感じている。そして苦に満たされた心の持ち主、つまり私は、そのこころ故に自ら苦しむことになる。私は、この苦しみこそ諸悪の根源だと思う。

 

もう少し言うなら、「好き」とか「嫌い」と言う感情も、それを自覚した瞬間、それに気付いた瞬間、そのまま手放してしまえばどうってことない気がする。何故なら、「好き」や「嫌い」なんて、実は明確な根拠や実体がある訳ではなく、その時の気分とか環境に影響されていることが多いのだから、時間が経てば勝手に解決!なんてこともあるからだ。逆に、一番ダメなのは執着すること。

 

この歳(57歳)になって思うこと。
それは、良いことも悪いことも好きも嫌いも、とにかく執着はダメだと言うこと。世の中は生成と消滅の繰り返しと言うか、とにかくいろんなものが次から次へと生まれ、そして消える。そんな状況で、何かに執着すると身体にも心にもよくない。そんな気がします。もちろんアトピーにもね。手放そう!


余談。

昨日、京都の嵐山でお会いした東京のM君(25歳男性)との時間は最高だった。
アトピーの相談が中心かと思えばそうではなく、(実際アトピーは殆ど分からない状態。)で、本人曰く「とにかく飛鳥さんに会ってみたかった」と。
で、お互いこれと言った会話をする訳でもなく、二人並んで嵐山のそよ風を感じていた。本当に1時間位、無言でじっと座っていただけ。会話が弾むのはそれはそれで楽しいけれど、私はこんな出逢いも大好きだ。こんな贅沢な時間があっていいのだろうか・・。その時間、その空間に一緒にいることが大事。そんな彼とお盆休みに再会の約束をした。次は伊豆で会おう!と。今から楽しみ。